統一教会を卒業した私が思うこと | ちょっと微妙にスピリチュアルな話

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本当の自分を思い出す、本当の自分を取り戻す。

 

これがこれからの私の人生のテーマになります。

 

 

本当にたくさんのしがらみの中で私たちは生きています。

 

生きにくくて、どうしたらいいかとそれを外の世界に求めてしまったのでしょうか?

 

 

いろんな教えや思想、そして宗教にまでその答えを求めてきた人生であったかもしれません。

 

 

でも、本当は答えは全て自分の中にあるということです。

 

 

もう一人の自分という顕在意識と潜在意識を超えた超意識という部分が私たち人間にはあるようです。

 

それが宇宙のアカシックレコードにアクセスできて、宇宙の全ての叡智から知りたいことをネットで検索すると出てくるように、生きていくための方向性が降りてくるのかなというイメージを持っています。

 

 

なんで私はこんなにも悪名高き、カルト集団とまで言われている統一教会と関わって生きてきたのか?

 

 

自分がそれまでの人生で、ずっとずっと答えがでなくて求めていたものがその教えの中に全てあった、これこそ究極の真理だと30年前に思ってしまいました。

 

その時に、もう一人の自分と出会い、その存在に気付き、それが私の神様であると思って、これからはこの神様のために生きていくとすべてを捧げる、そんな心情で信仰生活をスタートした時のことが思い出されます。

 

これ以上の喜びはないというほどの紅潮感を味わいました。

 

 

 

多くの今も現役で信仰を続けている兄弟姉妹の中には、多かれ少なかれこのような神体験をされた方がたくさんいることでしょう。

 

 

それは否定できない、自分の中に起こった現実です。

 

 

 

今、すべての教えが唯一の真理ではなかったという結論の中で生きています。

 

 

メシア思想とか、人間の堕落とかそういうキリスト教的な思想は完全に私の中にはなくなっています。

 

 

それでは30年前に私を統一教会に導いたその超意識なのか、神様なのか、わからない目に見えない存在はなぜそのようなことをしたのかということです。

 

 

これは私の中の潜在意識がが引き寄せただけかもしれません。

 

 

エネルギーというのはそういう作用をするのかなと思うようになりました。

 

私が幻想として持っていた世界をこの世で引き寄せてしまったのです。

 

 

 

 

それにしても本当に多くの日本人たちが、その統一原理なるものに導かれていきました。

 

 

その背後には教祖である文鮮明氏の祈りの力があったのかなと思います。

 

 

祈りは強く念じれば念じるほど、エネルギー場に影響を与えて、現実を引き寄せます。

 

これは私の信仰生活での経験からそうだったと言えることです。

 

 

霊界があって、霊界がそのように作用していることを実感してしまうのですから、教理を否定することができません。

 

 

霊感商法なんて言われていますが、その背後にその祈りの力があるのです。

 

霊界の目に見えない力によって信者たち、もしくは信者候補の人たちは自分の意志とは違うところで献金をしてしまってきたのではないかと考えています。

 

 

 

これが詐欺ですか?

 

 

詐欺とは自分たちの利益のために人をだます行為です。

 

 

統一教会で行われてきた霊感商法は、教理の中に堕落した人間が神様の元に戻るためには、人間よりも神様に近い万物を神様の前に捧げることが条件となるとあるのです。

 

万物の代表として現代ではお金を捧げる、つまり献金をすることで神様の元に帰って行く条件になるわけです。

 

 

だから、騙そうとしているのではなく、救いの心情で印鑑や壺などを授かってもらうのです。

 

 

それによって神様に近づいていく、神様の元に帰って行く条件になるからです。

 

 

そしてその背後には信者の真剣な祈りがあります。

 

けっしてだまして物を売りつけるという行為ではないのです。

 

 

しかし、そこに少しでもエゴな思いがあれば、全部サタンに奪われます。

 

 

つまり、訴訟になったり、恨みになったりという悪い結果が生まれてしまうのです。

 

 

これらを経験してきたのが統一教会です。

 

だから問題が起これば、自分の心情を振り返り悔い改め、自分の中で神様とサタンとの闘いがなされるのです。

 

 

 

と、わかったようなことを書いていますが、これが一応、信仰者の時に私が理解していた内容です。

 

 

 

ところが、今はその教理自体を真理としていません。

 

この教理は人間の堕落というキリスト教の根本の教えが真理でなければ出てこない思想です。

 

 

最後の最後までこの人間の堕落があったのかという問題が私の中で残りました。

 

 

信仰を捨てて、新しい自分になって生きてきたその途中でもこの問題と決別できませんでした。

 

 

なぜなら、この世にはびこる悪と言われる現象をどう理解したらいいか、堕落論に変わるものが見つからなかったからです。

 

 

共産主義は神様に対抗するためにサタン側が作り上げた思想であると、

 

 

その唯物論から生まれた共産主義はこの世界からなくさなければならないと思っているはずです。

 

共産主義こそ悪の根源だと、保守層の方たちも宗教なんか信じてなくても思っているのではないでしょうか?

 

 

だから、ここで、政治の世界が宗教と手を組む、協力関係が出てくるのです。

 

 

お互いの目指すところが同じなのです。

 

 

しかし、今回の政治と宗教の関わりが表に出てきて、裏ではなんてことが今まで行われてきたのだと初めて知って驚いた国民もたくさんいるかもしれませんね。

 

 

それは政治家が本来の使命である、より良い日本を作る、国民の幸せを追求するのではなく、自分の保身のためとか選挙に勝つための手段として宗教を利用してきたところに問題が大きくなっているようにも感じます。

 

 

 

さて、信仰を卒業した私が思うことです。

 

 

この世はバランスである。

 

 

陽と陰は共存している。

 

宗教で信じられている善を叫べば叫ぶほど、それに反対するエネルギーが生まれる。

 

 

 

だから、お互いに心を穏やかにしていくこと、自分と違う考え方は尊重するしかない、それを受け入れる必要はないけど、ちょっとだけ自分の思いの中に溶け込ませて調和していく。

 

マヤ暦が目指しているのも穏やかな心です。

 

平らになった心には垂直に宇宙の叡智が降りてくると言われています。

 

 

祈らなくても、努力しなくても、アファメーションなんかしなくても。

 

 

そんな感じでしょうか?

 

これが信仰を卒業し、いろんな思想を求めては実践してきた末に、マヤ暦に出会った私がたどり着いている境地です。

 

 

そのうち、このマヤ暦の教えも必要ない時がくるでしょう。

 

 

宇宙の叡智と直接かかわることができれば何もいらないと思うのです。

 

 

0(ゼロ)の概念です。

 

マヤ人が大切にしていたルールの一つです。

 

 

仏教の教えにも’無’の境地になることがありますが、それが人間が目指すところなのかなと思ったりしてます。

 

 

人間の地上での波動が軽くなるために、もしかしたら一時的に必要だったのがこの新興宗教の教えだったのかもしれません。

 

 

今、今回のことで、私たちは過去の教えや常識、しがらみから解放されるときが来たということかもしれません。

 

 

 

多くの方が気づきを得られますように。