2024年4月13日(土)、宇治の旅の続きです。

 

宇治神社の境内から「さわらびの道」に出て、

少し坂を上ると宇治上神社があります。

 

 

「さわらびの道」は、

宇治橋~宇治上神社~源氏物語ミュージアムなど

源氏物語・宇治十帖ゆかりの地をめぐる散策道。

 

 

この名は『源氏物語』の宇治十帖にある

早蕨(さわらび)の巻にちなんでいます。

 

 

鳥居をくぐります。

 

 

 

橋を渡ると門があります。

境内図を見ると、橋は池に架かっているようです。

 

 

宇治上神社は、1994年に「古都京都の文化財」として

ユネスコ世界遺産に登録されました。

こちらが境内図です。

 

 

建物が本殿と拝殿のみでとても小規模であるため、

「世界一狭い世界遺産」と呼ばれています。

 

門をくぐると、正面に見えてくるのが拝殿(国宝)で、

鎌倉時代前期頃の建物です。

 

 

拝殿の前には、円錐状の盛り砂が2つあり、

これを「清め砂」と呼びます。

 

 

拝殿は、神社の規模に対して大きな建物で、

寝殿造の遺構ではといわれているそうです。

 

 

拝殿の右側から後ろへ回ります。

 

 

右側には「桐原水(きりはらみず)」という湧き水があります。

宇治七名水のひとつで、他6つは枯れてしまいましたが、

ここのものは今なお湧き続けています。

 

 

正面奥の少し高い所に見えていたのは、

摂社の春日神社。

 

 

拝殿の裏手に回ると本殿があります。

本殿(国宝)は、平安時代後期に建てられた

現存するわが国最古の神社建築で、

一間社流造りの三殿からなります。

 

 

 

ご祭神は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、

応神天皇、仁徳天皇の三神。

 

 

宇治上神社の創建には悲しい物語があります。

 

応神天皇の末の皇子であった菟道稚郎子は、

幼い頃から博識聡明でした。

そのため、父君の応神天皇が大切に手をかけて育まれ、

皇太子となりました。

 

応神天皇が亡くなると、菟道稚郎子は兄である

大鷦鷯尊(おおさざきのみこと=後の仁徳天皇)に

天皇の位を譲られました。

そして、現在の宇治の地に離宮を建て、

一線から退かれました。

 

しかし、大鷦鷯尊も「菟道稚郎子が皇位を継ぐことは、

応神天皇が定められたことなので変えることはできない」と言い、

3年間、皇位を譲り合いました。

 

その間、国民は戸惑い、世の中も乱れ始め、

菟道稚郎子は自身の行いで、このあり様をご覧になり、

悲しまれ、心を痛まれて、

「このまま私が生きていれば、世の中が乱れるばかりだ」

と自ら命を絶ちました。

 

これを知った大鷦鷯尊は、難波から急遽、

宇治へお越しになり、驚きと悲しみの中、

菟道稚郎子を手厚く葬られました。

 

本殿は、覆屋(おおいや)であり、

中に三神をそれぞれ祀る左殿、中殿、右殿があります。

中を見学することはできませんが、

囲いの外から中の様子を見ることはできます。

 

 

斜めの位置からしか建物全体の写真が撮れません。

 

 

境内が狭いので、あっという間に散策はおしまい。

 

 

さわらびの道を下りて、宇治川沿いの道へ戻りました。

 

 

途中、このような寺社の前を通りましたよ。

こちらは末多武利(またふり)神社。

 

 

こちらは放生院(ほうじょういん)。

宇治橋の守り寺とされることから

通称「橋寺」と呼ばれています。

 

 

この後、京阪宇治駅に向かいました。

 

(つづく)