中高生の頃、数人の友人たちと線路をとぼとぼ歩くのが好きだった。JRがまだ国鉄だった1980年代の北海道での話である。
 

 私たちの線路歩きには、定番のルートが4つあって、そのひとつが、函館本線の然別―銀山間の約10キロの線路だった。山の中を走るローカル線で、駅舎の近くを除けば、沿線に人家はなかった。夏に歩けば、セミの鳴き声が周囲の森全体から響いてきた。ただ友達とおしゃべりをしながら歩くだけだったが、札幌の市街地で育ったので、誰ともすれちがわずに山中の線路を歩けるのは、それだけで新鮮だった。人が普通はしないことをしているという無邪気な優越感もあった。
 

 運行本数が少ない路線だったが、危険な行為であったことは確かである。だが、危ない目にあったことは一度もなかった。時刻表でダイヤを確認しながら歩き、列車がそろそろ来そうになると、線路の前方あるいは後方に注意を向け、列車の姿が見えたり、エンジン音やレールの響きが聞こえてきたら、線路から脇に離れて列車を見送った。
 

 目の前を気動車や機関車がエンジン音を響かせながら通り過ぎ、レールの音が小さくなっていくと、周囲はふたたび、セミの音だけが聞こえる世界に戻っていった。この機械音から自然音へという音の風景の推移は、強く印象に残っている。

 

 今であれば、線路上を歩いているのを見つかれば、きっと通報されるのだろうが、あの頃は、そうしたことは起きなかった。轢かれなければ大丈夫だろうくらいに、私たちは考えていた。青春の思い出の一コマである。
 

1990年代後半のある年の冬、札幌市の狸小路(たぬきこうじ)商店街(アーケードがかかった商店街)を歩いていた。風が強い日で、小雪が宙に舞って、商店街の中にまで吹き込んでいた。そこに40~50人ほどの人だかりがあった。何だろうと見てみると、露天が開かれていた。商品は、踊る紙人形であった(紙以外の材質だったかもしれない)。

人の輪郭だけを単純な線で抜き出した、大の字のような紙人形(アメリカ人アーティストのキース・へリングの描くような人物)が5~6体、手の部分がつながって一列に並んだものが、支えもないのに地面に立ち、露天商の掛け声に合わせて、踊ったり、飛び上がったり、回転したりしているのである。童話のような素朴な不思議さを感じさせる動きであった。

紙人形がそれだけで踊ったり、ジャンプしたりするはずがないので、何かの仕掛けがあるはずだと思った。少しの間、目を凝らしてみていたが、それらしいものは見つからない。そこで、真横に回ってみた。この頃は現役のテレビ報道カメラマンだったので、その職業意識に触発された好奇心だったかもしれない(ひとつの被写体をいろいろな角度から眺めて撮るのがカメラマンの習性である)。

横に回って見えたのが、ピアノ線のような極細で透明な線であった。その線は、そこに立っていた白人の若い長身の男性のポケットから伸びていた。そのポケットの中で、彼の右手はかすかに動いていた。この線を使って、紙人形を操作していたのである。

この線の存在はなぜか、正面からは分からない。そのおかげで、紙人形がまるで自分の意思を持って、露天商の声に反応しているように見えたのである。操作しているのが白人男性であったことも、ひとつの工夫だった。日本語の掛け声を理解できなさそうなので、通りすがりの野次馬以上に、この商売とは無関係の人間に見えるからである。

さらに“さくら”もいた。躍る紙人形のデモが終わると、人混みの中にいた中年男性が突然、「よし! 買った!」と不自然に大きな声を上げると、そそくさと前に進み出て、財布から札を取り出したのである。

自慢するわけではないが、この仕掛けに気づいたのは私一人のようだった。だが、見物していた誰もが、この見世物にどこか胡散臭いものを感じていたに違いない。さくらの男性に続いて買おうとする人は一人も現れず、その場にいた全員が、波が引くように静かにその場を離れていったのである。露天商の売り込みの熱心さに比べると冷ややかにさえ感じられる、人々のこの反応も印象に残っている。
 

 十二支に午年はあるが、“シマウマ年”はない。それなのに、1966年の午(丙午)年生まれの私は子どもの頃、自分はシマウマ年生まれであると思っていた時期があった。そして、友達との間で十二支が話題になった時、自分は「シマウマ年生まれ」であると言うと、友人たちに「そんな干支はない」と馬鹿にしたように言われ、むきになって「シマウマ年生まれだ」と言い張った思い出があった。 
 

 後年、社会人になってから、何かのきっかけで、この出来事を母親に初めて話したことがある。そうすると、少しばつを悪そうにした母から、「ただの午(馬)よりも、シマウマの方が可愛いから、あなたはシマウマ年生まれ、と私が言ったのよ」という答えが返ってきた。子ども時代の苦い思い出の謎が解けた瞬間だった。

 

 そんなことを話された記憶はなかったが、私の母親なら思いつきそうな、愛情混じりのユーモアであった。子どもの私はそれを愚直に信じていたのである。そう思うと、我ながら、その時の自分がいじらしく感じられるのである。 
 

 私は幽霊もUFOも見たことがなく、今後もそうした超常現象の体験には無縁のまま、残りの人生を送ると思うが、私自身が意図せず奇妙な現象を起こしたかもしれないことが一度だけある。
 大学卒業を間近に控えた1989年の冬、親の勧めであわてて運転免許を取得した。実際に免許を取るまでは、免許なんかなくても生きていけるとうそぶいていたが、いざ自分で車が運転できるようになると、ドライブが楽しくてしょうがなくなった。父親の車を夜間借りて、大学の後輩をむりやり押し込んでは深夜のドライブに出かけるのが、残りわずかとなった学生時代の楽しみになった。
 冬の札幌の路面は、条件が悪ければスケートリンクのようにつるつるになる。運転技術が未熟で運転経験も浅い私は、そうした冬道の運転では細心の注意を常に払って運転すべきであったが、一度、市内の幹線道路でスリップしてしまい、赤信号の交差点に突っ込んでしまったことがあった。
 夜間で交通量が少なく、青信号側の車も異変に気づいて停止してくれたので、事故にはならなかったが、車のコントロールが効かなくなる状態に初めて陥った私は、この時、全身の毛が逆立つほどの恐怖に一瞬襲われたのである。
 帰宅して、翌日遅く起きると、母親が「昨夜、何かなかったかい?」と尋ねてきた。聞くと、寝ている父親の枕元に、私が突然立ったというのである。この不思議な現象が、私の運転ミスと同じ時間に起きたかどうかはわからなかったが、あえて原因を探せば、私の恐怖心がこの現象を起こしたのかもしれない。
 私がその夜の出来事を話すと、母は納得したようだったが、その後の母の言い草は今でもよく憶えている。「どうして、私の枕元に立たないで、お父さんのところに立ったの!」と半分怒っているのである。母にとっては、この現象の不思議さよりも、私(の霊魂?)が母の所に行かなかったことの方が重大なのであった。母親はどこまでも母親であることを再認識した出来事でもあった。
 

 『ブルー・シャトウ』(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)は1967年度の大ヒット曲で、同年の日本レコード大賞を受賞している。私の出生の翌年に出た曲だが、好きな歌謡曲のひとつで、今でもときどきYouTubeで聞いている。特に「きっとあなたは・・・」から始まるハーモニーが聞いていて心地よい。
 私はこの曲を聞くといつも、それに合わせて踊る幼児の姿を思い浮かべてしまう。その幼児とは、私の子どもでも、知りあいの子どもでもなく、私自身である。
 『ブルー・シャトウ』にあわせて踊った記憶は、実は私にはないのだが、母方のおじの一人によれば、幼児の頃の私は、この曲がかかると踊り出していたそうである。だから親戚の集まりがあると、時々『ブルー・シャトウ』のレコードをかけて私を踊らせ、皆で楽しんでいたらしい。
 そういう話しをたびたび聞かされたので、「『ブルー・シャトウ』で踊る幼児の私」というイメージが、いつのまにか出来上がってしまったのだ。だから漠然として具体的な細部のないイメージなのだが、幼児の私を見守るおじ・おばの視線が感じられるので、懐かしいイメージである。
 母方の五人のおじ・おばにとって、私は初めての甥(祖父母にとっては初孫)だったので、幼児のときだけでなく、物心がついた後でも何かとかわいがってもらった。また、私の母もふくめて、おじ・おばたち(とその家族)の結束は強く、私の子ども時代、休みの日には親戚そろって、祖父母の家に集まったり、海水浴やドライブに出かけるのが恒例だった。
 このようにして成長したので、父母だけでなく、親戚一同に育ててもらったという感覚が私には残っている。『ブルー・シャトウ』にあわせて踊る幼児の私のイメージは、そうした記憶と結びついているのだ。五人のおじ・おばのうち、三人はもう亡くなってしまったが、このイメージは私の中でまだ生き続けている。