ソープカービングで龍。
来年の干支です。
さて、母、叔母、従妹の4人で旅に出たのは、
「 鞆の浦 」
お話に聞いていた通りの素敵な素敵な街でした。
ポニョにもでてくる常夜灯
1859年に立った高さ5m、基礎石からだと11m
南向き面には「金毘羅大権現」
北向き面には「当所祇園宮」
という四国と鞆の浦にある海上安全の神様の名前が刻まれています。
常夜灯横の岸壁は階段状の雁木になっています。
雁木とは、潮の干満にあわせて舟板をかけられる石階段のこと。
鞆の浦の海は、流れのはやい東からの潮流と西からの潮流が合流するところ。
舟に動力がついていなかったころは、
一気に東西を渡航することができず、
一度鞆の浦の港に入港し、その後、潮が変わった後に、反対側へ出航したそうです。
このことから、鞆の浦は「潮待ちの港」と呼ばれていました。
また、木造船の底の海藻やフジツボなどを焼き払い、整備する焚場(たてば)も、残っています。
鞆の浦には、船ドックもあったということですね。
また、流れが速く、複雑なため、地元の人間にしか船を操ることは難しく、
この土地の人間が海路を支配することができたのです。
と、物知りなのは、こちら↓のおかげ。
ゴルフ場のカートを路上用に改良した観光タクシーです。
運転手さんが、
とっても丁寧に、優しく、説明してくださいました。
じつは、今回、80代2人を含む旅ゆえ、階段が難所。
そんな中、歩かなくてよいよう、
ぎりぎりまで、この小回りの利く車を付けていただき、
もう、感謝、感謝でした。
本当に、ありがとうございました。
そして、お連れくださった中に、寺町通りがありました。
鞆城を築いた福島正則が、鞆城を守るべく、
宗派を超えた寺院、神社を城下へ一直線に集め、並べた通りです。
( 最初に鞆城を築いたのは村上水軍という説も。)
山中鹿之助の首塚
毛利氏に滅ぼされ尼子氏の再興を企てるも失敗し処刑された山中鹿之助。
首は鞆の浦に、身体は高梁にあるそうです。
沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)
海上安全の神を祀る「渡守神社」と「祇園社」が明治で統合された神社です。
頭に書いた常夜灯に彫られた山側の文字「当所祇園」は、この神社のこと。
今も多くの祭りの舞台となっている沼名前神社。
過去も様々な催しがあったのでしょうね。
力石が並んでいました。
そして、驚いたのは、この能舞台。
なんと組み立て式で、戦場に持ち運んでいたとか。
秀吉が愛用し伏見城にあったものだそうで、
雅というか、なんというか。
この見事な彫りと
インド風?な狛犬さまとの対比も興味深かったです。
こちらは、鞆城跡からの風景。
織田信長に京をおわれた足利義昭が滞在した鞆城。
足利義昭はどのような思いでこの海を見たのでしょう。
この街並みは、そばでみるとこんな感じ。↓
デッサンしたくなります。
じつは、母と叔母は3回目の鞆の浦。
2人が大の贔屓のホタルイカやおじゃこの美味しいお店です。↑
そして、鞆の浦の名産品の一つ↓
途中まで味醂と同じ工程で作られる様々な生薬を漬け込んだ保命酒。
この保命酒を最初に作ったのは、大阪で漢方薬を扱っていた中村吉兵衛。
1655年に、鞆に移り住み、福山藩の御用名酒屋となりました。
豪商となった中村家ですが、納めていた藩もなくなり、
家業が傾いた中村家を廻船問屋の太田家が買い取り、
今は、太田家住宅として見学できるようになっています。
さすが、豪商中村家。
瓦と漆喰で作られた床のオシャレなこと。
屋根だって、極薄の板や竹を編み込んだ網代。
立派な神棚に、お茶室が2つもあり
釘止めも粋!
出来上がった保命酒はこのように備前焼の樽で熟成。
こちら↓は、番頭さんのお席。
ここからお外を見ると
海が見えるんです。
( 今は、看板があって、みえないけど。)
当時は、ここから積み荷をのせた船の入港の確認をしていたそうです。
ここに座ると、当時の風景が蘇るようでした。
ところで、前述の観光タクシーは鞆の浦内のみを走ります。
が、鞆の浦から車で10分ほどの阿伏兎にある阿伏兎観音もみたいな~、
と、こちらは普通の?タクシーで行ってきました。
安藤広重の浮世絵にもなったところです。
おっぱい観音ともよばれ、安産祈願の神社です。
この斜めに外側に下がった床が超怖くて。。。
ここから写真を撮りましたが、
怖くて、写真がいがんでる~。
さっきより近づいて。
鞆の浦、阿伏兎、
共に、自然と歴史豊かな美しい街に酔いしれた2日間でした。
で、その中でも、大変に感激したのが、
鞆の浦の宿
汀邸遠音近音(おちこち)
こちらは、次回に書かせていただきたいと思います。
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