山あいの小さな村「霞門村」。そこには典型的な村文化が続く集落と、森を切り開いて建造した「産廃最終処分場」が、村を見下ろすように建っている。処分場は村に雇用をもたらし、村人の多くは処分場での仕事に依存している。中に、片岡優(横浜流星)という若者がいる。彼は、犯罪者の父の咎と、ギャンブル依存の母の借金を背負い、ヤクザに金を返すため、来る日も来る日も処分場でのゴミ分別作業をしている。村人達からは、犯罪者の息子と差別を受け、いじめにあっている。そんな中、片岡の幼馴染の美咲(黒木華)が東京から帰ってくる。彼女も東京でつらい思いをし、傷ついて故郷に帰ってきた。しかし、彼女がまとう「都会の空気」は、村人達には、ある時は新鮮に、ある時はよそ者として映る。彼女は村をもっとプロモートして、観光客を集めようと、ごみ処理施設を見学するツアーを開催する。これをTVに売り込むことで、近代的な設備の処理場を見よう、村の名産を買おうと観光客が増加する。村人は、この観光客を喜び歓迎しながら、どこかで毛嫌いしている。処理場のツアーの担当を、片岡にやらそうと美咲が動き、施設の管理者を説得して、これを実現する。村がどんどん広く知られるようになると、片岡の評判も上がる。「罪人に子供が!」というねたみから、片岡へのいじめは暴力に変化していく。美咲との距離も近づきはじめると、美咲への妬みも強くなり、遂に事件が起こる。村長の息子、大橋透が美咲を襲い、それを救おうとした片岡は反撃にあい袋叩きにされる。見かねた美咲は、透を殺害してしまう。「透が行方不明だ」と捜索を始める村人達。だが、一人の若者がこれを警察に知らせてしまったことから、県警が乗り出してくる。こうなると、もう村だけの問題ではなくなる。そんな時、村長の大橋から呼ばれた片岡に、「産廃場の水質検査で、大幅に基準値を超える結果が出た」と告げられる。なんとか隠さなければ、処分場は閉鎖に追い込まれる。片岡に不正を頼む村長。その片岡が夜間作業としてヤクザにやらされていたのが、不法投棄の埋設作業だった。美咲の弟、恵一は、ある日埋設場のゴミの中に、危険品を知らせるマークのついたゴミを発見する。それは、あちらこちらに散見されるような量だった。恵一はその写真を村長の弟、光吉に見せて相談する。光吉は村長の弟で、10年前に村を出て、今は刑事をしている。不法投棄したゴミの掘り出しを行う警察は、そこに透の遺体を発見する。ここから、村の陰湿な結束は崩れていく。そして誰もいなくなった。エンドロールの後、恵一は、旅行かばんを引きずりながら、村を出ていく場面で終わる。
この映画の中心は、能の「邯鄲」だそうだ。うたかたの夢が「邯鄲」のストーリーらしい。能はこの映画を貫くテーマの一つだ。ドラマの中盤、村祭りに参加する村人達は、全員松明をもち、能面をかぶり、無言で行進する。表情の無い能面をかぶった村人達は、村の封鎖性を象徴するような場面だ。これは村を舞台に描かれるが、実は日本社会全体を見せているのではないか。伝統的な日本文化「和をもって尊しとなす」という自己主張のない、全体圧力と、近代的なテクノロジーが両立している、日本文化。現在の子どもたちは「米国式民主主義」を良しとするような自己主張を重んじる教育がなされているようだから、我々の世代が死ねば、日本の文化も変わるのだろうか。いや、日本人のDNAに刻まれた「沈黙は金」という価値観は、永遠に続くものではないか。考えさせられる映画でした。