最近思うことがある。
日本人というのは、ヒエラルキーを大切にし、酒を飲む席でも、タクシーに乗るときでも、常に自分と周囲のヒエラルキーに注意を払い、上座だ下座だと、上下を付ける。これを間違うと、村八分にされる(んなことはないか?)
そんな村社会においては、周りと同じであることが重要で、違うモノは、はみ出してしまう。周りより優秀なモノは、ある程度までなら尊敬を得るが、度を超えると叩かれる。
日本で天才と呼ばれたIQ200の少年が、海を渡りアメリカへ移住した。そこで彼は才能を大いに発揮し、8才で大学へ入り10才で卒業、ハーバードへ入学し物理を専攻、博士号を得たのが、16才。その後、企業に勤めたが、再び学業に復帰。先日21才で医師免許を取得し、臨床医として歩み出した。
そもそもは、日本の学校や教師が、この子をどう扱っていいのか、分からなかった事が問題の始まりだ。日本人は、異質なものの取り扱い方が分からない。両親の決断は正しかった。アメリカへ留学させたのだ。しかし同時に、日本は優秀な頭脳を失ったことになる。
日本の雇用制度は、これの最たるものではないかと思う。年功序列は、緩くなったとはいえ、依然として継続されており、若年者が先輩社員を役職でも、収入でも超えていけるのは、管理職になってから。とにかく、横一列にスタートを切り、ほぼ横一列にサラリーマン生活を終えるのだ。
しかし、これは日本の特有の制度であり、日本人特有のメンタリティーである。これを、海外に持ち込んではいけない。アメリカでも欧州でも、中国でも、徹底した能力主義と実力主義、成果主義が当たり前である。この制度は日本人には非常に扱い難い代物である。「成果主義と言うが、成果の判断はどこでつけるのか。実力主義というが、何で実力測ればいいのか」管理職になると、当然ながら研修を受けるのだが、それらは座学に過ぎず、実際の場面ではそうはいかない。
グローバル化という名のもとに、現地法人の社長を現地人にしたり、経営を現地化すると称して、コンサルタントに意見を求めたりするが、仏を作って魂入れず。現実の場面では、多くの場合、日本的判断が幅を利かすし、顔は現地人だが雇用や昇進制度は相変わらず日本のものであったりすることがおおい。これが悲劇を招く元凶であるのだが、案外本社は気がつかないし、現地経営をを任された日本からの出向者も、メスを入れる勇気がないものだ。
日本では、全てが横一線であることが公平であるとされているが、狩猟民族の世界ではそうではない。逆に、それは不公平であるか、社会主義の社会だと思われる。家族や部族のために、一匹でも多くの獲物を狩り、食糧を確保する能力のあるものが偉く、その者がリーダーシップを取り、それこそが公平な扱いというものだ。それと慈悲は別のものだ。
日本の企業は、海外でも国内でも、もっとヘッドハンティングをどんどんやればいいのだ。真に競争を勝ち抜き、生き馬の目を抜くような行動力を持ち、企業に利益を持ち込むものにこそ、高額の報酬を与え、敗者は去る。しかし、資本主義の世の中であるから、敗者はまたチャンスを得て勝者を目指す。A社で負けたものが、無能ではない。能力と成果による報酬の格差は、格差社会とは別のものだ。その格差を嫌えば、社会主義を歩むしかないのだ。民主党の多くの政策は、社会主義的で僕は余り好きではない。生活保護制度なんて、際たるものだと思う。まぁ、作ったのは自民党なのかもしれないが。「恥」を知っていた時代は、「他人の世話になることは、恥ずかしい事」だったが、「もらわないと損だ」と考える時代では、適切な制度ではない。
グローバル化は避けては通れないのが、日本の宿命である。もう少し、「公平、不公平」ということについて、考えてみてはどうだろうか。目標を達成できなかったものを、達成できたものと同じように、「彼も頑張ったから」と評価することは、実は「不公平」な事だと、思うのである。
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