若かった頃、死なんてものは遥か彼方にあるもので、そんな物を身近に感じる事があるとすれば、推理小説の世界の出来事だった。
すこしづつ歳を重ねると、その間に親しい人の死に直面したり、親の死に目にあったりして、実感としての死が、近くなってきている事を感じさせられる。
そして50を過ぎ、自分の会社人生も、両手の指で数えられるようになり、子供達も、心配ながら一人前に育ってくると、果たして自分はこれからどうなるのだろうかと、大きな不安を感ずるようになる。どう生きるべきかと考えていたはずが、どう死のうかと考えている自分がいたりする。
母親位の歳になると、それは最早不安などではなく、むしろ「恐怖」になっているんだろう。歯が抜けるように、ポツリポツリと、同年代の親しい人達がこの世を去るたびに、「次は自分かもしれない」という恐怖。同時に、それを受け入れるための準備が十分ではない事に気付き、焦り、絶望し、悲しさと寂しさに苛まれるようだ。親戚の誰かの死に際が、病で苦しみ、周囲に迷惑をかけたと知ると、そうはなりたくない。絶対に子供や嫁に迷惑はかけたくないと怯える。また別の親戚が、食事の最中に、箸をポロリと落として、気がついたらいってしまってたと聞くと、余りあっさりしすぎるのもどうかと、苦笑いを浮かべる。
一人で夜の天井を見上げながら布団にいると、「あれはどうだったか、これはどうするんだったか」と、いろいろな事が頭を巡る。昨日思った事と今日思う事が、例えば正反対であったとしても、彼女にはその両方が真実に思えるのだろう。
一人暮らしの恐怖は、また別にある。例えば、突然脳梗塞に襲われて倒れ、そのまま逝ければいいけど、もしそのまま意識はあるが、体が動かなくなってしまったら、誰に助けを求めるのか、どうやって連絡をつければいいのか。これはある意味、死よりも重大な問題である。
日本は高齢化社会になり、医療費が嵩むとか、年金がどうとか。そんな話しばかりが取り上げられるマスコミの裏で、恐らくは殆どの高齢者が同様の恐怖に怯えながら、一人暮らしを余儀なくされているんだろう。そういう恐怖を癒す方法を、地方自治体や警察、消防などが連携をとり、システムを作ればいいが、今のムードはそんな事にはお構いなしだ。
結局、周囲の年寄り仲間が連絡を取り合い、相互に緩く監視をし合うことしか、方法は無いのであろうか。
我々も、その恐怖を否応なく味わうことになるんだろう。しかもそれは、もうそこまで来ているのである。
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