【読書】ラーメン屋の行列を横目にまぼろしの味を求めて歩くby勝見洋一 | なんのこっちゃホイ!

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世の中の、これでいいのか、こんなことでいいのかを描くブログ。そんなにしょっちゅう怒っていられないので、ほどほどに色々な話題も混ぜていきましょう。

オラがアメブロ日記


先日、三田図書館の新刊到着のコーナーで発見して借りてみた。僕は、この手の本が結構好きだ。ラーメンのルーツを求めて、中国を3000キロも旅した記録だとか、食べ物の蘊蓄についての本は、本当に楽しいし、読んでいて飽きない。


この本も、じっくり読みました。面白かった。

「この世から完全に絶滅してしまったもの。作り方がわからなくなってしまったもの。この二つが、まぼろしの味の度合では、最高位であろう。しかし、以前とは味が変わってしまったものを単純にまぼろしの味というのならば、まあゴマンとある。」

こんな書き出しから始まり、著者がこれまで世界中で食べたものの中で、もう味わうことのできない味を、ある時は懐かしみ、ある時は絶望し、ある時は怒り狂う。


「男の料理」と「おふくろの味」では、男の手料理は、おふくろの味に影響されていると主張するテレビの女性ディレクターと、男の料理について対決する。男の手料理は、おふくろの味だから、絶対に「肉じゃが」でしょう!と主張する女性ディレクター。どうして、おふくろ=肉じゃがなんだ!と怒り狂う著者。ほのぼのと面白い。

「給食のやきそば」を懐かしみ、「冷やしやきそば」に怒ると同時に、その驚きのうまさに感激している。


フランス料理とイタリア料理をくらべて、昔の古きよきイタリア料理は、フランス料理によって汚され、痛みつけられた。すべては、ナポレオンのせいである!と嘆く。


中華料理では、「麻婆豆腐」を解説している。ちょっと前まで、四川料理は辛くはなかった。ほんの三百数十年前まで、中国大陸は唐辛子を知らなかった。もともと四川は山と盆地で海がなく、鳥獣の肉と穀類に頼るしかなかった。香辛料であるのは、山椒だけ。それに岩塩と味噌で味をつけるという、いってみれば僻地の料理であったそうだ。厳しい気候で、夏は猛暑、冬は厳寒の地で、そこへ移り住んだ漢民族は、体調の異変に苦しんだ。そんな時、海上貿易で輸入されていた唐辛子と出会って、「これだ!」と飛びついたのであろう、と著者は推測している。そもそも麻婆豆腐とは、「麻」は「あばた」の意味なので、「あばた婆さんが作った豆腐料理」という意味であったというのが、定説らしい。この「麻」には「しびれる」という意味もあり(日本語でも麻酔というじゃない)、そこからこの料理の名前がついたとも言われているらしい。僕は、後者の方が納得できる。


著者は、「旨いとか、旨くないは、味の濃さできまる。最近の和食でも、フランス料理でも、昔のような強烈な濃厚さが消え去り、健康志向という流行の前に、味はどんどんあっさり、薄味に変化してきている」というのが、主張らしい。確かにそうだ。昔の料理、味というのは、濃淡がはっきりしていたが故に、濃いものは濃い、淡いものは淡いと見分けられ、その落差の中に、旨さがあったように思う。僕のおふくろの味が確かにそうだ。最近は本当に中途半端なボケた味の料理が増えたような気がする。


そして最後に著者は、「味覚とは記憶である」と定義して、筆をおいている。


なかなか興味深く、蘊蓄にあふれ、目の前に料理が浮かび、舌の上に味が広がるような、そんな本だった。