ジュニアがバレエのプロを目指すとき、たいていは舞台で踊るダンサーを目指すと思います。
元々は私もそうでしたが高校生のときには『いい先生』になりたいと思っていました。
今のような教え方になるまでのこと。ちょっと長くなってしまいました。お付き合いください。
小学生のときの将来つきたい職業は保育士、中学生のときには宝塚歌劇団に憧れ(母が地元出身で三代でヅカファン)、高校生のときにはずっとバレエをやりたいと思い始めました。
私は大きなスクールに行き始めた年齢は遅めで、高校生になってから。理由は3歳から通っていたスタジオしか知らなかったからです。子どもにとっての社会って狭いんですよね。
学校と習い事、通っている範囲しか見えていません。それが高校生くらいになったら少し周りが見えてきたのです。
さらにめちゃくちゃ厳しい先生が、いつの間にか私に意地悪をするようになったのです。「やる気があるならセンターでは前に出なさい」と言われ続けていたので頑張って前に出ると「あなた大きいから邪魔よ」と言われてアームスのセカンドポジションが壁にぶつかって踊れないほど端に立たされていました。(13歳で今と同じ172cmになっていました) もちろん脚を挙げることもできません。するとさらに「そんなんではやる気がない」と怒られ、今考えるとおかしなことだらけですが当時は私が頑張って上手になったら先生から認めてもらえるのではと頑張るしかなかったのです。そしてなぜかバレエをやめる選択肢はありませんでした。
そうしているうちにいつも同じクラスを受けていたアシスタントの先生と一緒に帰るとき、駅まで歩く道すがら意を決したように話してくれました。
「もう見てられない。見てるほうがつらくて。あんなに意地悪されて休まずレッスン来て頑張ってるからあなたなら他のちゃんと教えてくれる教室に行った方がいい」と。
それであの厳しさは厳しいのではなくいじめだと気づきました。
それからはいくつかバレエ団の付属のスクールに体験に行ってみたり、回数券でしばらく通ってみたり。
夏休みには短期夏期講習を受けに行きたいと親に頼み込んで行かせてもらいました。その一つが昭和音楽芸術学院のバレエ科のワークショップでした。許可してお金を出してもらえたのは他のワークショップより安かったからです。おそらく学校主催だったからでしょうか。
ここで恩師 新井咲子先生と出会って運命が変わります。生まれて初めて踊るときにはお腹を引っ込めるのではなく「引き上げる」のだと知りました。
その後スターダンサーズバレエ団の中高生クラスに入ったときには高校3年生になっていました。バレエ団創設の太刀川瑠璃子先生と咲子先生に「あなた本当に3歳からやってるの? 全くそう見えないわ」と言われた衝撃、13~14歳で膝や腰が痛くなっていたことが通常あり得ないことだと知ったのもこのとき。
ゼロからやり直すつもりでほぼ毎日レッスンに通いました。しばらく通って、太刀川先生からは「あなたくらい一生懸命にやる子なら、もうちょっと早くうちに来ていたら違ったかもしれないけれど…遅かったわね」と…
第一希望のバレエ科を諦めてバレエを裏から支えようと昭和音楽芸術学院の舞台芸術科に入り勉強しました。
でもまたバレエへの気持ちが再燃してしまい、太刀川先生に相談したところこう言われました。
「あなたの熱意には負けたわ。あなたなら、色々な経験をしているからそれを活かして、これからの勉強と努力次第でいい先生になれるかもしれない。これからは大人のバレエがさかんになるだろうからジュニアとは違う教え方が必要で、そういう苦労をしていない いいダンサーはいい先生になるとは限らないの。ただしお手本は必要だから見せられるように頑張らないと無理よ。」
人生のターニングポイントというやつです。
バレエ科に転入したときには先生を目指し、卒業してからスポーツクラブのスタッフになったのも身体のことを勉強できると思ったから。そのスポーツクラブでパーソナルトレーナーという職業があることを知り、運動未経験の大人の身体の状態を知り、バレエの指導にとても役に立っていると感じます。
高校生まで筋バランスがめちゃくちゃな状態でレッスンしていて、その後の修正は大変でした。スポーツクラブのスタッフになることを思い付いていなかったら、今頃身体を壊してバレエをやめていたかもしれません。
だからちょっとしつこくても、正しい身体の使い方を教えたいのです。自分のような苦労をする人を1人でも減らしたくて今のような教え方になりました。筋バランスによってパの一つ一つの大変さも違います。成功するか一か八かではなく、確実に基礎を積み重ねていく大切さを体感してきたからこそ教えられることがあります。
いつも同じ注意しかされないのは生徒の頑張りが足りないから、だけではないかもしれません。