義仲館 | お山の杉の子

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詩吟・なんの負けるか今にみろ…

翌日は、木曽町日義にある木曽義仲の「義仲館」を見学した。
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着いた途端に皆さんが、受付で館長先生に捕まっていた。
「ビデオ撮るな、写真撮るなと、ケチなことは申しません。どんどん撮ってくださ~い」。
奥の細道結びの地資料館さんに聞かせてやりたいなあべーっだ!

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「平家方は、上を下への大騒ぎ、矢を取った者は弓を取らず、弓を取った者は矢を取らず。」
平家軍10万と義仲軍5万の倶利伽羅の戦い。万寿姫。斎藤別当守実盛公討ち死にのお話…と、独演会が、いつまでも続く。

木曽義仲の父、源義賢は、「平清盛」とはライバルの源義朝と兄弟である。
しかし、義賢の勢力拡大を恐れた兄の義朝は、子の義平(頼朝の兄)に殺させてしまう。
当時2歳の駒王丸(木曽義仲)も殺されるところだったが、義平の家来だった斎藤実盛は哀れに思い自分の子どもとして育てようと匿うが、義朝の詮議が厳しく、母の小枝とともに木曽の中原兼遠のところに逃がしてやった。

ここまでは知っていたが、まだ続きがあった!

●斎藤別当守実盛公の討ち死にのお話

斎藤実盛は、源義朝の家臣として、保元の乱でずば抜けた手柄を立て、平治の乱でも活躍するが平氏に敗れる。
新領主になった平宗盛は、実盛のこれまでの功績を認めて、これまで通り、別当として家臣とする。
源頼朝が挙兵した時も、実盛は平宗盛の恩に報いるため、平氏として戦うことを決意した。
こうして、かつて命を助けた木曽義仲(駒王丸)と戦うことになるのである。

篠原(石川県加賀市)の戦いで、敗走していく平氏の兵の中、赤地錦の直垂を着て、最後尾でただ一騎ふみとどまり防戦する名を名乗らぬ武士がいて、義仲軍の手塚太郎光盛と戦いとなり壮烈な討死をする。

「光盛が変わった曲者を組み討ちして参りました。ただの侍かと思いましたがそれにしては豪勢な錦の直垂を着ており、大将かとも思いましたが続く軍勢もなければ、そうでもなさそうでございまする。」

「名は何と申すものか。」
横に並んだ義仲側近の侍のひとりが問うた。
「それが名乗れ名乗れと申したものの、ついに名乗りませなんだ。声は坂東訛の声でございました。」

「これは斎藤別当であろう。」
義仲が見知っているというので、陣屋は驚いた。

「俺が坂東を追われて上野を越えたときに、まだ俺は子供だったが確かにこの顔は見覚えがある。じゃがあの時すでに髪には白いものが交じっていたから、今ではすべて白髪のはずじゃが、この髪の黒さはおかしい」
まだ髪が黒いほどの若さなら別人かも知れぬ。

義仲は実盛と親しかった樋口次郎を呼んで首実検をさせた。
樋口次郎は一目見るなり両目からどっと涙があふれた。
「間違いございませぬ、斎藤別当でございます。」
声も涙声である。

「それならば今はもう七十にもなろう。白髪になっているだろうに、この髪の黒さはどうしてじゃ」
と尋ねたが、樋口次郎は溢れでる涙のために声が声にならない。
落ち着くまでにしばらく時間がかかった。
「その子細を申し上げようと思うのですが、不覚にも涙が止まりませなんだ、御容赦下され」
樋口次郎によれば、実盛は日頃以下のようなことを述べていたという。

「齢六十を越えて戦に赴くときは、髪を黒く染めて出陣しようと思うのじゃ。若い連中と争って先陣をかけるのも大人げないし、老武者といって相手から侮られるのも嫌じゃからのう。」
「常日頃からそう申しておりましたが、本当に染めておるようです。髪を洗わせてご覧あれ」
事実髪を洗ってみると、総髪の白髪が現れた。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1121594426

義仲は、命の恩人の無惨な最期に、首を抱き…、泣き崩れた。

松尾芭蕉も、『奥の細道』の途上で小松を訪れて実盛を偲び、今も多太神社に現存する実盛の甲を見て「むざんやな 甲の下の きりぎりす」と句を詠んでいる。