『雲の墓標』⑧ | 樋浦明夫のブログ

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日々の出来事(家族や私的なことに触れるのは苦手なので、主としてグローバルな事)、歴史的な過去の出来事、浮世のことについて思ったこと、感じたことを思いつくままに写真や文で紹介したい。

 2月20日の日記の続き。親友の藤倉に、われわれの日本は、いまあきらかに存亡の危機に立っ

 

ているからこの戦争は大きな意味があると思うが、自分らのことを自由主義教育に蝕(むしば)

 

まれたサルだとおもっておもい上がっている職業軍人の手に、自分たちの生命を一束にしてゆだ

 

ねることは、我慢がならないと告げた。この戦争は、どこか根本的にまちがったものがあるよう

 

な気がする。この戦争が支那事変の延長であるなら、日本に正義があるという結論はどうしても

 

出てこない、とも。支那事変が中国に対する日本側の一方的な侵略であることに気づいている主

 

人公の発言である。ことのはじめからして、戦うべきではなかったとまで言っている。
 

 

 拙著『文学と映画からみる戦争(1)』の「生きている兵隊(石川達三著)」(2011年8月30

 

日)の冒頭にあるように、1937年(昭和12)の7月7日夜に北京郊外の盧溝橋で中国軍と日本軍

 

の間に武力衝突が起こった(盧溝橋事件)。当時の近衛内閣は事件の不拡大方針をうたいなが

 

ら、同時に朝鮮、・満州から兵士を派遣し、華北派兵の重大決意をもってこの戦争を北支事変と

 

呼んだ。増援部隊が着いた7月28日に華北に総攻撃を開始し、8月4日までに北京、天津を占

 

領。中国人民は抗日民族統一戦線を作って日本軍に抵抗した。こうして宣戦布告のないままに日

 

中全面戦争に突入した。9月2日に日本政府は「北支事変」を「支那事変」と改称した。
 

 

 半藤和利著『B面 昭和史』によると、1937年6月4日に国民の期待を担って近衛文麿を首相と

 

する新内閣が発足した。陸軍による政治介入を排除して、暴力や流血によらない内政・外交・経

 

済の立て直しに対する期待だった。だが、上のように組閣後わずか33日目に盧溝橋事件が勃発

 

した。陸軍の戦略にひきずられた日中戦争の始まりである。軍部の考えは弱い中国軍の頭をガン

 

と叩きつけて、中国北部を占領すれば事変はすぐにかたずくだろうという甘い見通しだった。中

 

国では、1936年の暮れに、蒋介石の国民政府軍と毛沢東の共産党軍との間で「国共合作」が成

 

立し、日本帝国主義に対する徹底抗戦の民族統一戦線が作られていた。中国側にとっては中国に

 

対する侵略者、日本軍に対する当然の祖国防衛戦争だった。
 

 靖國神社の遊就館図録には、支那事変の原因は日本軍にたする抗日テロなどによる中国側の反

 

日機運にあるとなっている。戦意高揚を煽った靖國神社としてはこのように記すほかないのであ

 

ろう。
 

 

 岸田首相は11日の日米首脳会談に臨み、共同声明を発表した。その重大かつ危険な中身は、

 

米英豪による事実上の軍事同盟のAUKUS(Ausutralia, United Kingdom, United Statesの略

 

称、オーカス)に対する軍事協力で中国の軍事的抑止を図ることと、先端軍事技術協力を宣言し

 

たことにある。軍事ブロック的対応はその地域の軍事的緊張を助長するだけで一触即発の事態に

 

なりかねない。87年前の支那事変のときには敵国だった米英豪と一緒に中国を封じ込める作戦

 

だ。もし、米軍の指揮下で自衛隊が中国を攻撃する事態になったら、中国は米国ではなく日本に

 

対して全面的な報復攻撃をおこなうだろう。こうなっては遅い。日本はまたかつての愚を犯そう

 

というのか。この79年間、日本は軍事ではなく平和憲法を活かして外交をやってきたからこそ

 

周辺国から信頼されていた。これを一気呵成に破壊しようとしているのが安倍、岸田の二代政

 

権である。平和の党を自認する公明党の影は極めて薄い。自公政権を下野させないととんでもな

 

いことになるのは今や明々白々。