阿川弘之の『雲の墓標』④「海兵団 | 樋浦明夫のブログ

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日々の出来事(家族や私的なことに触れるのは苦手なので、主としてグローバルな事)、歴史的な過去の出来事、浮世のことについて思ったこと、感じたことを思いつくままに写真や文で紹介したい。

  3月26日に岸田政権は日英伊が共同開発・生産する戦闘機を日本から輸出することを可能にす

る閣議決定を行った。これは日本が戦後歩んできた平和国家を投げ棄て「国際紛争助長国家」、

堕落した「死の商人国家」への道を突き進むことにつながる。1970年代にかつての宮澤喜一首

相(当時外相)は「日本は武器を輸出するほど堕落していない」と言ったものだが、安倍、菅、

岸田政権と集団的自衛権の容認の閣議決定、「安保3文書」の閣議決定というふうに着々と戦争

する国づくりを国会にも諮らずに既成事実を積み重ねている。まさに昨今の日本は戦争の前野と

言ってもいい位に戦前と酷似している。

 

 自国が軍備増強すれば周辺諸国も軍備増強に走り、結局武力紛争を助長することになり、平和

など保たれないのは自明のことだ。現在の情勢で言えば、日本が中国の軍備に追いつこうとする

なら際限ない軍事費を投入しなくてはならない。挙句の果てに周辺諸国を刺激することになり周

辺国も武力で構え威嚇することになり、ちょっとした問題で(例えば領土問題など)武力で訴え

て解決しようとする。そして戦争したがり屋(今の政府のお偉方や三菱などの死の商人)は軍需

特需で大儲けする一方、命を投げ出させられるのは庶民である。これは理不尽以外のなにもので

もない。だから軍備増強には警鐘乱打してしすぎることはない。

 

 さて、「海兵団」、「海軍兵学校(海兵)」の話は済んだので、次に「海軍飛行予科練習生

(予科練)」の話に移りたい。1929年(昭和4)に海軍に「予科練習生」制度が設けられた。将

来の航空特務士官を育成するのが目的で、満14歳から20歳未満の高等小学校卒業者に応募資格

が与えられた。教育期間は3年で、その後の1年間に飛行戦技教育が行われた。1930年(昭和

5)6月に全国から5807名が志願し、79名が合格するという狭き門(73倍)だった。これらの合

格者は第一期生として横須賀海軍航空隊に入隊した。1936年(昭和11)に「予科練習生」から

「飛行予科練習生」に改称。翌年から幹部搭乗員育成のため、旧制中学4学年終了以上の学力を

有し、満16歳以上20歳未満の若者が志願する甲種飛行科予科練習生(甲飛)制度が設けられ

た。甲飛は海軍兵学校の受験資格と遜色なかったため、待遇も出世も海軍兵学校に準ずるとされ

た。しかし、これには偽りがあったようで実際の低待遇に失望した第三期の予科練習生はストラ

イキを起こしている。これがために海軍省は不評の水兵服を廃止して、短ジャケットに桜に錨の

七つボタンを制定し、これが予科練の制服として定着した。当時は「桜に錨の七つボタン」とい

ったら予科練を意味した。こうして西條八十作詞、古関裕而作曲による軍歌「若鷲の歌」(昭和

18年)にも「若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨」と謳われることになった。