阿川弘之の『雲の墓標』③ | 樋浦明夫のブログ

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日々の出来事(家族や私的なことに触れるのは苦手なので、主としてグローバルな事)、歴史的な過去の出来事、浮世のことについて思ったこと、感じたことを思いつくままに写真や文で紹介したい。

 「予科練」を理解するために最初に「海軍兵学校」について話したい。海軍兵学校の歴史は古

く明治9年(1876年)に瀬戸内海にある広島県江田島にあった大日本帝国海軍の将校(士官)の

養成を目的とした教育機関で通称「海兵」と呼ばれた。「海兵」はちょうど陸軍の「士官学校」

に相当した。終戦の1945年に廃止されて戦後は海上自衛隊幹部候補生学校となった。江田島が

海兵の地に選ばれたのは軍艦の錨泊が容易にできることと、娑婆(しゃば)から隔絶された環境

で教育に専念できるからだった。戦前、戦中の江田島と言えば海兵の象徴だった。

 

 阿川は娑婆という言葉について、「分隊長から『娑婆』という言葉を聞かされた時には、自分

がいま、住み慣れた自分の天地から、はっきり疎隔した別の世界に移って来たことを、強く感じ

させられた。」と記している。戦後、巷ではこの娑婆という言葉を庶民は普通によく使ってい

た。要するに海兵の世間を卑下した特権(エリート)意識の表れだったのではないかと思う。 

 

 海軍兵学校は海軍三校の一つで、他は海軍機関学校、海軍経理学校を指す。兵学校の受験資格

は健康な男子に限られ年齢は16歳から19歳、旧制中学校(今の高等学校に相当)第4学年終了程

度の学力のある者とされた。大型戦艦の建造、航空隊の倍増などによる要員確保のために1941

年(昭和16)年には採用生徒数は900人となり、1936年(昭和11)の採用数300人に比べると

3倍となっている。戦時中にはさらに増えることになる。それに反比例して教育期間は4年制

(1932年)から次第に短縮され、1941年入校の73期生は2年4カ月に速成された。全国の有名

中学校の優秀な生徒が難関を突破して海兵に入った。

 

 戦争中、英語は敵性語だという理由で使用を制限された。しかし、海軍では井上成美校長の

信念で徹底した英語教育が行われたという。このように戦争中、英語は敵性言語とされていなが

らも社会からすべて放逐されたわけではなかった。少なくとも高等学校以上の中・上級学校の受

験科目に英語が入っていたので、当時の受験生が英語に悩んだことは今と変わらなかった。当時

の受験雑誌『学生』(昭和18年11月号)に「英語学習の心得」という一文(著者は佐藤正治と

いう東京文理大講師)に、「英語は日本語である。わが大日本帝国圏内に於いて通用する英語

は、明らかに日本語の一方言なのである。」という希有壮大な文章があるそうだ。敷衍すると世

界の言語は全て日本語の方言ということになる。これが大東亜共栄圏(狂栄圏?)構想の成れの

果てである。なおこの部分は『神国日本のトンデモ決戦生活』(早川タダノリ著、ちくま文庫)

を参考にした。