攝津幸彦(せっつ・ゆきひこ、1947年~1986年)は、49歳で早逝した俳人だが、いまだに根強い人気がある。

それは、寺山修司や阿部完市とはやや違う言葉の色彩感なのだろうと思うのだ。

 

年譜によると、攝津幸彦は、兵庫県八鹿町生まれ。関西学院大学を卒業。高校時代より叔父の影響でJAZZを聞くようになり頻繁にJAZZ喫茶に通ったという。

大学では在学中は映画研究会に所属。また伊丹啓子(「青玄」主幹:伊丹三樹彦の娘)を知り「関学俳句会」創立、機関誌「あばんせ」を創刊。また学生俳句会のつながりで、他大学の坪内稔典や澤好摩らと交流、大学を超えた同人誌「日時計」創刊に参加する。

1970年、広告会社の東京旭通信社に入社し上京(東京方面暮らし?)。

1974年、坪内稔典らと「黄金海岸」創刊。1974年、「鳥子幻影」で俳句研究「第二回五十句競作」にて佳作第一席となり、編集長の髙柳重信に見出され一躍注目される。

1980年、俳誌「豈」創刊に仁平勝らとともに参加。同誌は遅刊で知られたものの、前衛俳句の一大拠点となった。

1992年より肝炎で入退院を繰り返し、1996年10月順天堂病院にて死去・・・とある。

 

よく知られている句に、

 

   幾千代も散るは美し明日は三越

  南国に死して御恩のみなみかぜ

  階段を濡らして昼が来てゐたり

  露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな

 

などがある。

俳句を意味の中だけで完結させることを嫌い、自立した言葉同士が邂逅することによって生まれる新しい叙情性を追及した。

また明治・大正から戦前・昭和戦後の日本の原風景を素材としたものが多く、特に「幾千代も」「南国に」の句が含まれる「皇国前衛歌」と呼ばれる一連の作品群は、言葉から出発して俳句におけるフィクション表現を完成したものとして評価されている。

 

そのほかにも、

 

  さやうなら笑窪荻窪とろろそば

  国家よりワタクシ大事さくらんぼ

  野菊あり静かにからだ入れかへる

  美しき腰遅れつつ輪廻せり

  蝉しぐれもはや戦前かもしれぬ

 

があるが、これらは、なんとなくイメージが結ぶ感じがする。

 

しかし、さらに不思議な不思議なダリヤの句だが、・・・

とくに、第一句の「南浦和」は、なぜ南浦和なんだろう? と。

一連の語感での措辞の選択なんだろうか?  ・・・ずっと悩ましく思っていた。

 

  南浦和のダリヤを仮りのあはれとす
  口笛を吹きつゝダリアを軟禁す
  押入れのダリヤの国もばれにけり
 

関悦史は、このダリヤの3句について、次のように評す。

 

「 《仮りのあはれ》とされるダリア。
押入れに秘密の国を築いていたり、軟禁されたりと、他の花よりもやや親密の度が高いらしいこの花はしかし一度も《洗われた》ことがない。
ダリアが洗われたとき、「仮りのあはれ」は「まことのあはれ」になってしまうのかもしれない。しかし「まこと」といった安定した主体による求道の境地は、幸彦として何としても避けたい、身にそぐわぬものだったのだろう」 と。 

 

たしかに、幸彦の俳句を読むためには、補助線が一本では足りなさそうだ。

『豈』で一緒だった仁平勝の『路地裏の散歩者――俳人攝津幸彦』(邑書林、2014年)があるが、版元品切れのため、まだ読めていない。

 

  そこで一句。      亀岡のカンナを仮の可憐とす    ひうち