先ごろ80歳で亡くなった筒美京平さんは、「昭和後期(ないし1970~80年代)を代表する職業作曲家」として認知されているが、編曲家、さらにはプロデューサーとしても、稀有な存在だったと思う。
筒美自身は、「わたしは、村井邦彦くんのように、総合プロデューサーを目指したのではない」と語っているが、本音は違うのではないかと思われる。
編曲については。すでに書いてきたし、多くの批評家が書いているので、プロデューサーとしての筒美京平について書いてみようと思う。
筒美は、グラモフォンの洋楽ディレクター時代の末期に、ジョニー・ティロットソンの「涙くんさよなら」(作詞/作曲は浜口庫之助)のディレクターをしている。これで、ヒット曲のツボと醍醐味を覚えたと述懐している。
1966年に職業作曲家に転身したときは、自分の好きなジャズは封印して、用意された歌手とってヒットする曲はなにか(その歌手の流れのなかで)をストイックに追究してきたともいえる。
最初は、ヴィレッジシンガーズ、弘田三枝子、オックス、ジャガーズ、などGSブームのなかで、ついで、いしだあゆみ、奥村チヨ、南沙織、平山三紀、郷ひろみ、野口五郎、豊川誕、少年隊、近藤真彦、田原俊彦、岩崎宏美、太田裕美、斉藤由貴、CCB・・・などなど。枚挙にいとまがない。
たとえば、南沙織、郷ひろみなどは、CBSソニーの酒井ディレクターや作詞家で先輩の橋本淳にプロデュースはまかせていたきらいがあるが、ただ、そのころからスタジオ録音のトラック数が増えたことから、レコード録音には、スタジオミュージシャンを起用するようになったと言われている。
郷ひろみ「男の子女の子」での、ギタリストの矢島賢の起用(私鉄沿線のコーラル製エレキシタールも)、尾崎紀世彦「また逢う日まで」では、イントロのドラム(「ドン)というタムの音で有名な)は、ジャズドラマーの猪俣猛、ベーシストは、元ブルーコメッツの江藤勲、ディスコミュージックでは、スラップ奏法の名手・後藤次利、コーラスでは、シンガース・スリー、など。
ブラス、ストリングスについても、筒美の御用達があったようだ。
かなり細かい注文を付けたときく。
なぜ、筒美京平の曲。アレンジが色あせないのか? そのあたりを、スタジオミュージシャンへの注文という視点から、もういちど勉強し直してみたい。