俳人日野草城は、俳句界ではよく知られているように、1934年、『俳句研究』4月号に、新婚初夜をモチーフとしたエロティックな連作「ミヤコホテル」10句を発表。この連作は京都東山に実在するミヤコホテルを舞台にしているが、草城自身は新婚旅行などはしておらず完全にフィクションの句であった。しかしフィクションの句やエロティシズムの句への理解が乏しかった当時は俳壇の内外に騒動を起こし、さらに第三句集『昨日の花』にこの連作を入れたことが客観写生、花鳥諷詠を題目とする虚子の逆鱗に触れ、1936年の草城の「ホトトギス」同人除名にまで発展した。俳壇では西東三鬼などは一定の評価をしたものの中村草田男や久保田万太郎が非難、また文壇でも中野重治が批判を行っている。しかし文壇にいた室生犀星は「俳句は老人文学ではない」(『俳句研究』1935年2月号)という文章を発表し「ミヤコホテル」が俳句の新しい局面を開いたとして積極的に評価した。この犀星の賛辞をきっかけにして中村草田男が『新潮』誌上で「ミヤコホテル」を批判する文章を発表、これに草城自身が反駁し、『新潮』『俳句研究』で「ミヤコホテル論争」と言われる論戦に発展した。
その10句とは、以下のようなものだった。
けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
夜半の春なほ処女(をとめ)なる妻と居りぬ
枕辺の春の灯は妻が消し
をみなとはかかるものかも春の闇
薔薇にほふはじめての夜のしらみつつ
妻の額に春の曙はやかりき
麗らかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく
湯あがりの素顔したしく春の昼
永き日や相触れし手はふれしまま
失ひしものを憶へリ花曇
当時(1934~5年:昭和9年~10年)の論争は「フィクションの句やエロティシズムの句への理解が乏しかった当時は俳壇の内外に騒動を起こし」とあるように、エロティックな俳句というのは、問題視されていたようだ。
しかし、同時期に上梓された谷崎潤一郎の小説「卍」や「春琴抄」は、ワイセツなどと忌み嫌われていたということもないようだ。谷崎の「卍」「春琴抄」は、かつて読んだ記憶があるが、テーマは、同性愛だったり、マゾヒスティックな愛だったり、と通常の男女愛や性交渉をもろに、生々しく(渡辺淳一の日経新聞小説のように)は、描いてはいなかったものの、日野草城の俳句のほうが、エロいとは言えないと直感的に思う。
戦後の『チャタレイ夫人の恋人』の翻訳(訳者は伊藤整:若かりし頃の作品と訳書趣味の印象が違った)が、最高裁まで行ってわいせつと認定され、該当部分をカットさせられた(その後、ワイセツ概念が狭まり、当時のままで出版可能となったが)。
憲法判例の資料集をつくるときに、35歳くらいの女性の編集者に読んでもらったが、そのとき「卑猥というかやはり猥褻ですよね」と言っておった。しかし、あまりにもこの手の文章に免疫がなさそうで、基準にはならないと感じたのだが、ワイセツと感じることの水準をはかることは、ひとや時代によって、大きく変わるのだ。そう、エロス表現も、ようは受け手の問題なのだ。
ここでは、あまり、具体的に谷崎のエロス表現に言及できないが、文学表現の深さ(近代人間的合理性言説への懐疑と皮肉が込められているように思える)として、小説「卍」と俳句「ミヤコホテル10句」は、横綱とただの幕内力士くらい「エロ度に格のちがい」があるように思えてならない。
この日野草城の10句は、当時の俳句領域や表現の可能性として、隠された社会風俗としての性生活=「新婚初夜」を題材てとしオモテに出したもので、あきらかにエロス表現を極めようとはしていない。
こんにちから見たら、何が「エロティック」なのか、「恥ずかしくなる」のか、感覚としてしっくりこない。それは、多くのかたも、感じるのではなかろうか?
つまり、私が言いたいのは、日野草城のエロス表現は、その意図は別にしても、谷崎に比べて、さらには当時の(性という20世紀の未開拓の領野を拓くという)文学表現の世界水準やその問題意識と比しても、まだまだ深みがないと思うのである。
20世紀文学にとって、性表現は、最大のタブーで未開の領域だった。―― いかがだろうか?
【ひうち・なだ】