「早春賦」「ゴンドラの唄」「カチューシャの唄」「琵琶湖周航の歌」など、日本人の郷愁・旅情を誘うあの大正ん浪漫歌謡のルーツがわかった、ような気がする。
それは、「真白き富士の根」(ましろきふじのね)という歌である。
この曲は、あの大正浪漫の郷愁ワルツの日本のルーツだったといえるのだ。
実は、この「真白き富士の根」(ましろきふじのね)をYoutube で聴いて、あっつと感じた。
やはり、この曲があの大正浪漫の郷愁ワルツの日本のルーツだったと、ピンときたのである。
この「真白き富士の根」は、逗子開成中学校の生徒12人を乗せたボートが転覆、全員死亡した事件を歌った歌謡曲である。
「真白き富士の嶺」、「七里ヶ浜の哀歌」 とも呼ばれる。
1935年、1954年にはこの事件を題材にした同名の映画にもなったらしい。
ちなみに、成立年: 1910年(明治43年)
作詞者: 三角錫子(みすみ・すずこ、1872年-1921年)
作詞当時、系列校である鎌倉女学校(現・鎌倉女学院)の教師だった。
東京都目黒区にあるトキワ松学園中学校・高等学校の設立者でもある。
作曲者: ジェレマイア・インガルス
(この人がさらなるルーツをたどる際のキーパーソンとなる)
「七里ヶ浜の哀歌」 の方が原題に近いが、一般には、歌い出しの歌詞から 「真白き富士の根(嶺)」 と呼ばれた。
10年(明治43年)1月23日: ボート転覆事故発生。
1910年2月6日: 逗子開成中学校にて追悼大法会開催。
鎌倉女学校生徒らにより、鎮魂歌としてこの歌が初演された。
1915年(大正4年)8月: レコードが発売された。
1916年(大正5年): 歌詞・楽譜が刊行された。題名は 「哀歌(真白き富士の根)」。
このころから演歌師によって一般に広められ、歌謡曲となった。
1935年(昭和10年): 松竹により映画化。題名は 「真白き富士の根」。主題歌は松原操が歌唱。
1954年(昭和29年): 大映により映画化。題名は 「真白き富士の嶺」。主題歌は菊池章子が歌唱。
詞を紹介しよう。
真白き富士の嶺、緑の江の島
仰ぎ見るも、今は涙
歸らぬ十二の雄々しきみたまに
捧げまつる、胸と心
ボートは沈みぬ、千尋(ちひろ)の海原(うなばら)
風も浪も小(ち)さき腕(かいな)に
力も尽き果て、呼ぶ名は父母
恨みは深し、七里ヶ浜辺
み雪は咽びぬ、風さえ騒ぎて
月も星も、影を潜め
みたまよ何処に迷いておわすか
歸れ早く、母の胸に
みそらにかがやく、朝日のみ光
暗(やみ)に沈む、親の心
黄金(こがね)も宝も、何にし集めん
神よ早く、我も召せよ。
雲間に昇りし、昨日の月影
今は見えぬ、人の姿
悲しさあまりて、寝られぬ枕に
響く波の、音も高し
帰らぬ浪路に、友呼ぶ千鳥に
我も恋し、失(う)せし人よ
尽きせぬ恨みに、泣くねは共々
今日も明日も、かくてとわに
従来、「ガードン作曲」 とされてきたが、ガードンなる人物については何も知られていなかった。賛美歌研究者である手代木俊一(当時:フェリス女学院図書館事務室長)の研究で、実際にはアメリカ人ジェレマイア・インガルス(Jeremiah Ingalls, 1764年3月1日-1828年4月6日)の作と判明した。1995年頃から読売新聞や逗子開成学園が手代木に取材し、この事実が一般にも知られるようになった。ただし、インガルス作曲であることを指摘した日本人は手代木が最初ではなく、既に1948年に遠藤宏が著書の中で指摘している旨、手代木自身が記している。
1805年、ジェレマイア・インガルスは白人霊歌集『クリスチャン・ハーモニー (Christian Harmony)』を刊行した。同歌集に掲載された曲『Love Divine』と『真白き富士の根』はかなり似ており、同曲が起源と考えられる(同曲はイギリスの民謡を元にインガルスが編曲したもの、との指摘もなされている)。 手代木によれば、同曲には 2種類の歌詞が付けられていた。(1) 「To him who did salvation bring」で始まる歌詞と、(2) 「The Lord into his garden's come」で始まり第5節が「When we arrive at home.」で終わる歌詞とである。
1835年、アメリカ南部で刊行された賛美歌集『サザン・ハーモニー (Southern Harmony)』には、同曲は「Garden」の名で収録された。歌詞は「The Lord into His garden comes」で始まる歌詞が付けられた。
統一協会の成約聖歌には、サザン・ハーモニー版に近い曲が『園の歌』として収録されている。出典は「SOUTHERN FOLK」(南部民謡)とのみ記されており、歌詞は多少アレンジされている。参照:英語版、日本語版。
『園の歌』と『真白き富士の根』の関係は、一橋大学教授(当時)の櫻井雅人が指摘している。参照:『一橋論叢』 132巻3号 (2004.9): 「ナンシー・ドーソン」とその関連曲 205頁。
1881年-1891年に刊行された賛美歌集『Franklin Square Song Collection』では、さらに『真白き富士の根』に近い旋律となった。歌詞は、「The Lord into His garden comes」で始まり「When we arrive at home.」で終わる。天国での来世に希望を託す歌である(なお、「ガードン作曲」説は、当時の賛美歌譜に付されていたチューンネーム「Garden」を堀内敬三が作曲者名と見誤ったのが起源、と推測されている。→ 岩波文庫『日本唱歌集』)。
日本国内においては、同曲は 1890年(明治23年)刊行の『明治唱歌』において、『夢の外(ゆめのほか)』(大和田建樹作詞)として採用された。三角錫子はこの唱歌の替え歌として『七里ヶ浜の哀歌』を作詞したのである。『夢の外』の2番、『七里ヶ浜の哀歌』の4番の歌詞については、共にキリスト教の影響が指摘されている。『七里ヶ浜の哀歌』 5番の「悲しさ余りて 寝られぬ枕に」は、『夢の外』 3番の「うれしさあまりて ねられぬ枕に」がヒントとなっている。
この曲は、歌謡曲経由で、再びキリスト教賛美歌に使用されるに至った。日本福音連盟 『聖歌』(1958年)623番、『新聖歌』(2001年)465番、聖歌の友社 『聖歌(総合版)』(2002年)669番の『いつかは知らねど』である(喜田川広作詞、1957年)。歌詞の第1節、第2節、第4節は、原曲の「When we arrive at home」を意識したものとなっている。
ルーツは、白人霊歌だったようだ。スコットランド民謡と言い、白人霊歌(キリスト教の教会音楽)がなぜ、日本人のこころの琴線に触れうるのか、これこそが問題だが、これは歴史研究が必要だろうと思う。
【ひうち・なだ】