振り返ってみると、私は、声、歌声、韻律、にこだわってきたように思う。
それで「声」だが、これは、リアルな声もあるし、メタファー表現としての声もある。
しかし、両者は、その底でつながってもいる。
ことば=言語は、つねにアレゴリーとして構築され、感受する外部をフィクション化するからである。
また、ことばには、話ことばと書きことばがある。
ジャック・デリダは、書きことば=書かれたことばをエクリチュールと、話しことば、話されることばをパロールとして、西洋哲学では、エクリチュール<パロール という図式が構築されてきたという。
すなわち、パロールには真実が宿り、エクリチュールにはレトリックの織り=技巧≒フィクションがともなう、と。
しかし、パロールも一種のレトリックであることからは回避できない。
これは、ソシュールのシニフィアンーシニフィエ もっと言えば、ウィトゲンシュタインの言語哲学、そして、フッサール現象学のノエシスーノエマの影響も感じられよう。
20世紀哲学の言語論的転回という、切り口には、ポストモダンを経た今日では、異論もあろう。
ポストモダニズムは、赤子も流し去ってしまった、という言説。
それは、またあらためて考察するとして、ここでは、もっと「声」ということを、歌声と聴き手の感受という点に、おりて考えてみようと思う。
歌声ということでいえば、やはり尾崎豊と桑田佳祐、さらには、矢沢、氷室、桑名、桜井、達郎、などだが、女性では、平山三紀、竹内まりや、三木聖子、絢香、葛城ゆき、中村あゆみ、宇多田ヒカル、椎名林檎などがあげられる。
すでに、尾崎豊の「勿忘草:forged-me-not」は、あえてキーを下げないで、サビの再高音をかすれて声にならないような「悲痛さ」を演出している。尾崎以外に、こうした演出をする例はあろうが、このぎりぎりの切なさを秘めた叫びは、尾崎以外にはないと思う。
ミスチルの「声」という歌にも、ゾンぐライター&シンガーの桜井和寿の「声」に対する心情が出ていて面白い。
これは、オーディエンスを意識した曲かもしれない。
歌詞を紹介しよう。
『声』 Mr.Children ;桜井和寿 詞・曲・ヴォーカル
言葉はなかった メロディーすらなかった リズムなんてどうでもよかった 喉まで上がった もやもやがあった 大声で叫びそうになった
この街にあふれてる スピーカーから流れてる でも君にぴったりの歌を僕は探している 昔は嫌いだった なんか照れくさかった
でも誰かに好かれたかった ファルセット出なかった ハモるの下手だった だけど三度下を歌いたがった
時には悲しんだり 時には喜んだり 君が鳴らす音楽にそっと寄り添っていたい
言葉はなかった メロディーすらなかった リズムなんてどうでもよかった 胸にしまってあった もやもやがあった
たまらなく君に逢いたかった 別に巧くなくていい 声が枯れてたっていい 受け止めてくれる誰かが その声を待っている
やや、常套句的なところもあるが、流行歌のLyricということを考えると、ちょうどいい塩梅なのかもしれない。
考察については、声の一回性、書きことばの再生性、という視点から(これは、パロールとエクリチュールの観点が逆になっていることが言えよう)すすめよう。
具体的には、またの機会に。
【ひうち・なだ】