1 坪内稔典の「俳句論」は、多岐に渡っているが、近年の主張に絞って見ると「俳句における意味の問題」「口誦性」「片言性」「言葉の余白」「テクスト(作品)の読み手への委ね」などがあると思われる。
また、一九九五年の著作『俳句のユーモア』(講談社=岩波書店)においても、坪内稔典(以下、稔典氏)は、俳句の「片言性」「口誦性」を強調している。これらは、俳句において「負の要素」と見られているが、「負」であっても、大文学では表現できないものをきっと表現できる、と述べている。
そこには、稔典氏の元来の俳句観である「常に俳句とは何か、を意識の根底におきながら句作をする」思想を実行・確立していったことへの確信があると言える。
俳句の「片言性」は、言葉のもたされる意味(シニフィエ)を多義化し、ふくらませうる揺籃である。それを豊かにするのは、共同性の場としての「座」であり「会」であるとする。ここでいう「座」「会」などもメタファーとして読まれたい。
それが、近代に絡みとられた、こわばったままの個人、こわばったままの表現、をほぐすという。
これは、近代を超える志向性を持った俳句理論と言えよう。
2 ちなみに、日本の近代とは、まず、封建社会が崩れ、明治に入り、富国強兵・殖産興業が唱えられ植民地主義へと移行する日本資本主義の勃興期――明治時代の前期といわれているが――を指すとされている。俳句史の関係で重要なのは、精神史的に日本の近代人の光と影を捉えた夏目漱石であろう。近代人の自我とは、じつは「自由の牢獄」であった。近代の合理主義的な解放や自由がかえって自己抑圧に反転するというパラドクスである。個人に負荷がかかりすぎると、窮屈になる。いわゆる「立身出世」などもそうである。
一側面ではあるが、その遊びの部分で、共同の座で語り合える文芸ゲームとして、俳句は発展したのではないか。もちろん、そのうえでの、正岡子規の功績は大きいのであるが。
稔典氏の問題意識も、そのあたりにあって、「窮屈な近代合理主義」に風穴をあける手段=文芸=俳句を考えていったのではないかと推測する。
3 ちなみに、近代とは、単なる時代区分ではなく、ドイツの社会哲学者J・ハーバマスのいう「近代――未完のプロジェクト」、英国の社会学者A・ギデンズのいう「再帰的近代」の用法も取り入れると、マックス・ウーバーのいう「脱魔術化し合理性が支配する時代」であるといえよう。
それを超えるとは、「ポストモダン思想」(フーコー、デリダ、ドルーズなど)か「再魔術化思想」(ウエーバー=山之内靖の指摘)か「臨床の思想」(鷲田清一)などであろうか。
4 それでは、はたして稔典氏の俳句論とは、近代を超える俳句・俳句観とは、片言性・口誦性に尽きるのか。前記の諸思想などを意識しているのかどうか。
稔典氏は、そのうちに、「言葉の意味の多義性」に注目し、俳句における、立ち位置の反転、すなわち、作者と読み手の関係の反転(出された俳句は座のものになる=読み手に委ねるということの徹底であろう。――自分の句は説明しない)を強調するようになった(佛教大学最終講義など)。
いわば、「意味論」へのコミットである。
5 稔典氏の「意味=意味論(セマンティック)」は「言葉の意味連鎖がわかりにくいが景は取れる」とか「無意味俳句は、江戸時代からあるナンセンス俳句(ことば遊び=貞徳、思いつきをおもしろがる=談林的)」に通じるし、俳句という文芸形式にとって他の短詩系文芸(文学)との差異化(川柳との差異化は多義的か一義的かで区分する)ができ、俳句が独自の文芸としてのアイデンティティを確立できる可能性を持っているキーワードとも言える。
しかし、稔典氏には、これらを標榜・擁護しながらも一方では壊そうとしてきた傾向も見られる(=脱構築してきたと言ったほうが正確かもしれない)。代表的には、氏の提唱してきたユーモア・諧謔などは意味(文脈依存性)が重要である。その意味で、モダン(意味)にとどまりながらも、ねじれてポストモダン的な志向性(意味の回避=景への志向)があると言えるかもしれない。
6 稔典氏の「ネンテン今日の一句(e船団二〇一五年九月三日)」の寺山修司の句についての評も、無意味の意味と俳句の関係の考え方を示唆していて興味深い。そこの部分を、取り上げてみよう。
〈寺山修司〉の残した名作は「かくれんぼ三つかぞえて冬になる」。この句はすなおでない。おおいにひねくれており、ひねくれぶりが常軌を逸している。三つ数えて冬になる、というところにその逸れが如実。理屈をこえて、いわば無意味が現れているのだ。5・7・5の言葉が無意味を獲得する、それが名作である。 ――と稔典氏は言い切るのである。
ここで問題となるのは、「意味」という語の「意味」である。寺山の句は意味のない句だろうか? たしかに、一七文字の文からは、論理的な意味=理路はないかもしれない。しかし、「三つかぞえて~冬になる」は、文体・文脈としての意味は語のリズムによって維持されている。これは、無意味ではなく、語の文脈依存性のある俳句であって、無意味から意味への誤読された転換ではないかと考える。ただし、稔典氏の語の諧謔さ加減からすると、案外私と同じことを言いたいのかもしれない。
寺山の句の表現意図は、すでに人口に膾炙したパターンである。「冬」の季語は語の韻象着地点としておちつく。必ずしも季語が冬でなければならない必然性はないが、「冬になる」と言い切ることで、「冬という寂しさの心象」の反転・発条を秘めているのではないだろうか。
7 一般的に、表現と意図について言えば、ソシュール言語学を参照点にすれば、音や文字の連なりとそこに込められた表現意図(音表と表意―シニフィアンとシニフィエからの発想)は、乖離を余儀なくされる。その乖離に詩情やずれた滑稽・ユーモアが生まれる空間ができるのではないか。読み手の「読み」「解釈」は、文法をはずれて、書き言葉の織り=エクリチュールの景=情景・心象風景の「同期」によって直感的に鑑賞・解釈されるのではないか。稔典氏の俳句論も、こうした理論に共振しているのではないか、というのが私の見立てである。
8 その他、稔典氏の俳句論の主要な問題群を見過ごしているかもしれないが、その点はご容赦願いたい。
なお、氏の「口誦性」「景=イメージ」「韻律」論、「写生論」、「句作技法」などについては、紙幅の関係で、他日を期したい。
【ひうち・なだ】