平成もあと1年だが、このところ演歌と言われるジャンルの曲を聴いていて、やはり石川さゆりの「天城越え」(吉岡治:詞)を越えるものはないと思った次第である。
そもそも、演歌は、川上音二郎「おっぺけぺー」や添田亜蝉坊のような政治演歌士が、アジテーションのように街頭で歌ったものが源流である。応援歌的な意味では、水前寺清子の「365歩のマーチ」、演歌士っぽい感じだと「ずんどこ節」などがある。
戦前から戦後にかけて、1つは、朝鮮人の強制連行が行われた。これは、黒人がアメリカに奴隷として連れてこられたように、「哀歌」として、不条理で理不尽な別離と差別を、望郷と同胞愛に託して、どうしようもなく嘆かざるを得ない、いわば黒人ブルースの日本版としての「ブルース演歌」が誕生した。--同時に、日本のなかでの南北問題=出稼ぎ、蒸発、など、望郷の演歌も叢生した。--「北国の春」「雪国」などが典型だろうか。
ブルース演歌の代表は、森進一、青江三奈、石原ミレイ、八代亜紀、などに代表されよう。
そして、もうひとつ、ハワイアンからラテンへと移ったムード歌謡もあった。
さらに、「兄弟船」「風雪流れ旅」のように、地に着いた生き様の哀楽を歌う演歌も、流行ったが、時代と人間関係が変わりつつあるなかで、演歌の素材はどこにあるのか? ご当地ソングか、本格パロディ演歌か、といったところだろうか?
で、「天城越え」だが、これは、心中天の網島、のように、愛(欲)の狂気スレスレを伊豆を写生しつつ歌い上げるという意味で、画期的であった。
石川さゆりの歌終わりの前に躰を出すポーズも象徴的だ。
これと、いま対抗できるのは、すぎもとまさと「吾亦紅」(フォーク演歌かも)くらいか。これは、亡くなった母への思いが、田舎の土地の情感とともに歌われて、土の匂いがする名曲だ。すぎもとの歌い方、声質もいい。
結論としては、そうですね。
「天城越え」を越えるには、一家心中をあの世から恨み歌う、というような設定などが必要なのではないかと、愚考するしだいであるが、不謹慎ですかね。
みなさんはどうでしょうか?
【ひうちくん】