▼月刊『俳句』誌(角川書店)二〇一六年七月号に、シンポジウム「俳句にとって季語とは何か」が掲載された。出席者は、金子兜太(大八年生)、宇多喜代子(昭一〇年生)、大串章(昭一二年生)、長谷川櫂(昭二九年生)、黛まどか(昭三七年生)、司会は復本一郎(昭一八年生)である。

▼私は、以前より同様の疑問を持っていたので、疑問を解く鍵があるかと期待して読んだ。

だれしも俳句をはじめるとき「俳句は、五・七・五で、季語が入っていなければいけません」と習ったはずだ。俳句の初心者本にも「切れ字」などとともに必ず書いてある。それで、私は、俳句を、「有季定型を基本ルールとする文芸」とまず理解した。

しかしその理解はすぐに覆り、ルールにはつねに例外ルールがあり、その外延は明確ではない。俳句には、無季句・破調句・自由律句などがある。なかでも、種田山頭火のように、放浪人の自由律句は、その生き様に即して読めることもあり、俳人のなかでも一般に人気の高い人物で、その句も人口に膾炙している、と言える。

▼本座談会であるが、結論から言って、高名な俳人たちが、俳句というものの俗説に距離をとって話しており、いろいろ考えながら句作・批評をしていることに好感をもった。

▼「自明であることをまず疑え」と言ったのはマルクスであるが、「有季定型」「花鳥風詠」「客観写生」などの四文字熟語も、戦時中に国民の士気を鼓舞・高揚させるための標語で、「鬼畜米英」と同様、高浜虚子のプロパガンダ力の罪作りな才能のなせる技であった、と長谷川は言う。たしかにそう見える節がある。

さらに、長谷川は「魔法使いは他者に魔法をかけるが、自分はかからないようにしている」と虚子を評する。そして、あえて季語を三つ使った自句「花のなか花咲きみちて桜かな」を揚げている。

▼最長老の金子はもっと柔軟である。「無季俳句を排除した虚子は、自身が無季俳句を作っている」。「俳句には季語と言うものがある」(昭六年)と虚子が言ったのは、ある種の商売=ビジネス根性なのだと言う。また、金子は、「季語」と「事語」にわけ、「季語」は、自然の季節をとらえたもの、「事語」は、ひとや事物を社会性のなかでとらえたもので、この二種類が五七五の俳句形式であり、両方あわせて「詩語」と言うとし、この「詩語」をもって織りなされるのが俳句であるとする。

▼長谷川、宇多は、ニュアンスは違うが「季語のフィクション性」を唱える。たとえば、長谷川は、「月」は、秋にしか出ないものではない(年中出る)のに、秋の季語である。そのコロラリーで、新旧暦の「ズレ」も説明する。歳時記の季の「ズレ」は気にしないことだと言う。しかし私は気になるタチである。

宇多は、歳時記はあくまで参考で、その通りには作らない、と言う。「西瓜」が秋で、「西瓜割り」は夏の季語というのも変だ、とも。あまり季にこだわり過ぎないことだと言う。

▼比較的若い世代の黛は、季語の役割を肯定的に捉える。季語に蓄積された情報(美意識など)の有用性や言葉自体よりその質感を説くが、一方で、地球温暖化・栽培方式の人工的変化などで、年中トマトやきゅうり、ねぎなどがあること、暦の関係で七夕の時期など、「ズレ」があることは確かだと言う。その意味で「季語はフィクション」だという考えに賛意を表す。ただ論者によって「フィクション」の重点・意味はずれているように思う。そもそも俳句自体がフィクションであるのだから。

▼司会の復本は、最後に「理想の歳時記」を提唱するが、ややシンポジウムの論点の流れから外れているように思う。「歳時記」で四季に分類しにくいものは、「トマト」(主に夏、秋・春・冬も=自然のものは夏が多い)とするような「実態と独断の歳時記」(「歳時記」とはいえないので「彩事季」とでも名づけたらどうか=こうした「彩事季」を編むこと)がむしろ適切なのではないだろうかとも思った。

しかし、そんなに、過度に、「四季・新年」分類の季語にこだわる必要はあるのだろうか。

▼最近、句会のあとの席で、Uさんと「季語」について話をしたことがある。Uさんは、「季語は俳句の過度の主観性・主情性を抑える役割を果たしている。」「多くの季語には、日本人共通の季感・生活感(共感=共生感)があるので、その言葉の力を五七五のなかで使うことによって文芸作品となりうる。」と季語には肯定的だ。

 俳句は、「型の文芸」として成立しているので、季感(季語)と五七五の韻律に拘束されてはじめて有効に成立する文芸かもしれない。

▼しかし私には、やはり季語は一種の俳句業界の符牒に見える。符牒がないと、業界を(句会を)わたりにくいのは確かだ。しかし、季語はあってもなくてもよいと思う。主軸となる言葉、金子の言う「詩語」があればいいのではないだろうか。「詩語」に、時には、フィクションでもヴァーチャルな意味をもたせてもよいと考える。すでに俳句では、空想・シンボル・メタファーなどは多く使われている。有季定型俳句が、暗黙のゲームのルールだとしても、その「例外の外延」は、たしかではない。あくまで、本人の作る句に一種のポエジーを共感する可能性のある他者が存在すれば、ことたりるのではないだろうか。

俳句という行為は、俳句というものを深く考えつつ自由に作る行為であるが、しかしそこには他者に読まれることを想定して作る行為という、パラドクスがある。それがいわば、「俳句を脱構築する」(すなわち、約束事としての俳句をつくりつつも別物に変えてゆく)ことにつながるのではないか、と考えている次第である。                                【三人水】