企画展「花ひらく雨華庵の絵師たち」(細見美術館) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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花ひらく雨華庵の絵師たち

 

往訪日:2024年12月7日

会場:細見美術館

会期:2024年12月2日~2025年2月2日

開館:10時~17時(月曜休館)

料金:一般1800円 学生1300円

アクセス:地下鉄東西線・東山駅から徒歩10分

※撮影NG

 

 

続いてアート篇。

 

江戸琳派を確立した酒井抱一。その一門の画風と変遷を画塾「雨華庵」をキーワードに読み解いていく。そんな企画展だった。

 

「またまた渋すぎるのー」サル

 

 

酒井抱一(1761-1828)は姫路藩主酒井家の出身。江戸の大名屋敷に生まれたが、次男としての処遇に嫌気が差したのか37歳で出家。遊蕩生活を送りつつ、俳人・画家として名をあげた。晩年48歳で吉原遊女・おちかを身うけ。下谷根岸の百姓家に移り画塾に改装。のちに雨華庵(うげあん)と呼ばれるようになる(現在の台東区根岸5丁目付近)。

 

(参考資料)非展示

酒井抱一《夏秋草図屏風(部分)》(1821-22)東京国立博物館

 

ちなみに有名な通称《夏秋草図屏風》も雨華庵で描かれた。

 

(初代)酒井抱一《紅梅図》(1810)

 

尾形光琳に私淑し、その後継と目された抱一だが、親分の絢爛豪華な様式美に対して、俳味と枯れた抒情性で個性を発揮するようになる。いわゆる江戸琳派だ。紙本銀地着色の《夏秋草図》だけを知る人には、こうした画賛つきの絹本は地味に映るかもしれない。しかし、抱一の持ち味はこうした余白を活かした作品にある。

 

(2世)酒井鶯蒲《筑波山之図》(江戸後期)

 

抱一の死後、雨華庵二世を継いだのが養子・酒井鶯蒲(きゅうほ)(1808ー41)。画題の筑波山は富士山に比して年中青い。紫峰の別称はそこから来ている。しかし、期待の星だった鶯蒲もまた34歳で急逝してしまう。

 

子供のいなかった鶯蒲の養子に入ったのが三世・酒井鶯一(1827-62)。ところがこれまた36歳で没してしまう。ということで、鶯一の娘と結婚していた養子・酒井道一(1845-1913)が跡目を継ぐことになる。

 

山本素堂《朱楓図屏風》(江戸後期)

 

ちなみに、道一の実父・山本素堂(生没年不明)は江戸の儒者で酒井一門となった絵師でもある。本作は光琳・抱一画《青楓朱楓図屏風》を元に金箔を銀箔に置き換えて再構成した。群青の流水、緑青の土坡。儒者の筆致とは思えない、いわゆる文人画との違いが見て取れる。

 

山本光一《春坡土筆図屏風》(江戸末期~明治期)

 

その素堂の長男で四世・道一の兄でもある山本光一(1843?-1905?)は明治期以降、伝統工芸を輸出する国策会社(起立工商会社)に籍を置き、近代工芸の図案家として大きな足蹠を残している。会社閉鎖後は金沢・富山で後進育成に当たった。弟子は「光」を通字に用い、花鳥画の天才・石崎光瑤は高岡工芸学校で指導をうけている。

 

「いろんな処で繋がってるにゃ」サル

 

 

話を戻して四世・酒井道一(どういつ)(1845-1913)である。主に活躍したのは明治期。1865年に焼失した雨華庵を再建。中興の祖と呼ばれた道一は、南蘋画風の繊細な花鳥画で評判となる。野沢堤雨、村越向栄、稲垣其達とともに四皓会を結成。江戸琳派の継承に尽力した。しかし、道一の面白さは“正統”を外れた処にもある。

 

(4世)酒井道一《蓬莱図》(明治期)

 

伝説の仙境、蓬莱をマグリットの《ピレネーの城》(1959)のように、あるいはラピュタのように中空に浮かぶ岩で表現した。これには幾つかのヴァージョンがある。人間には生まれながらにして浮遊願望があるというが、そうした気分をお目出たい画題に込めたのだろうか。ただの花鳥画に終わらないのが道一の魅力だ。

 

(5世)酒井抱祝《12ヶ月花鳥図屏風(左隻)》(明治期)前期公開

 

その子息で雨華庵最後の後継者、酒井抱祝(唯一)(1878-1956)の花鳥図。原点・抱一の画題を季節の花で表現した。外隈の月。垂らし込みの菊の葉。細かな技法を駆使しつつ、余白を活かした端正な画風だ。

 

150年余りもの間、酒井抱一の画風を慕って(血筋は絶えても)連綿と引き継がれてきたことは初めて知った。展示そのものも素晴らしく、スタッフもとても親切だった。

 

「そこが一番大事だの♪」サル

 

(つづく)

 

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