防衛省市ヶ谷地区 見学ツアー
往訪日:2024年3月25日
所在地:東京都新宿区市谷本村町5-1
ツアー:
(午前)9:30~11:30
(午後)13:30~15:50
料金:(午前)無料(午後)有料700円
定員:(午前)40名(午後)20名
予約方法:
①希望日の二箇月前に電話で仮予約
②送付されてくる予約フォームを返信
アクセス:JR市ヶ谷駅より10分
※写真撮影OK(記念館資料が一部不可)
《東京裁判がおこなわれた大講堂》
ひつぞうです。三月の下旬に防衛省・市ヶ谷記念館を見学しました。平成12年5月に六本木から防衛省が移転するまで陸上自営隊東部方面総監部が置かれた場所です。大本営地下壕跡もセットで見学できる有料ツアーに参加しました。以下往訪記です。
★ ★ ★
なにより予約が大変だった。すべてサルまかせ。
「電話が繋がるまでが大変なのち」
月曜開催なので年休取得。天気は残念ながら雨のち曇り。こればかりは仕方ない。
開始時間の20分前から正門前で受付開始。名簿照合ののち入構許可証を与えられる。ところが首から吊るした途端ストラップから落ちてしまった。その旨(身体能力の高そうな)案内役の女性スタッフに伝えたところ重大事案発生とばかりに過敏に反応。新品に交換してくれた。大袈裟だよ(笑)。
「場所が場所だけに粗相は許されないんじゃね」
そう思って正門内の撮影は控えていたが撮って良いらしい。判らん。良い悪いの線引きが…。
点呼を終えて大本営地下壕跡に向かった。
(配置図)
市ヶ谷台の構成はこの通り。大本営地下壕跡→市ヶ谷記念館→厚生棟という順序で観てまわる。
「防空壕についたにゃ」
まずヘルメットを渡された。
=大本営地下壕=
(内部模式図)
(出典)市ヶ谷地区ガイドマップ
入ったのは左端の出入り口から。
狭い通路を進む。間もなく広いスペースに出た。
「この床にあるのはなんぞな?」
「これはトイレの跡です」(スタッフ)
「ほほう。憚りの排水口が残ってますにゃ」
ここからどうやって排水してたんだろうね。
「川に流したとか?」
通路は格子状に交わっている。
交差部の天井に通気口があった。
「でも敵にばれない?」
地上は石灯籠でカムフラージュされているそうな。
少し前の写真では換気扇が付いたしっかりした鋼管だったが、かなり腐食が進んでいた。天井からは遊離石灰も絶賛発達中(笑)。ちなみにこの大本営地下壕は令和2(2020)年から見学対象になった。
通信室・大臣室の遺構。
「天井の鉄筋は?」
電線のケーブルラックの跡らしい。
ちなみに昭和20年8月10日に陸軍大臣・阿南惟幾が陸軍省幹部をここに招集。8月9日の御前会議における昭和天皇のポツダム宣言受諾の聖断を伝えた。岡本喜八監督の映画「日本のいちばん長い日」(1967)で三船敏郎演じる阿南大臣の印象的シーンが脳裏に甦った。
一番奥に到着。浴場、受水槽、そして炊事場の跡。
「お風呂があれば快適だの」
「でも内部の湿度は90%。とても入浴できる環境ではないのでタオルで拭くだけですませていたようです」(スタッフ)
「ええーっ!」
ひと通り解説して頂いたあと「質問ありますか?」と言われた。
「これってなんですきゃ?」 ←いの一番に質問するタイプ
「これ」とはこれ(↓)のことである。
「うーん。なんでしょうね。工事関係者がつけたものだと思いますけど」(スタッフ)
スタッフが困る質問しちゃダメだよ。
「何でも答えるべきだ」
※恐らくコンクリートの脆性を確認する打音検査の跡だと思われる。
ということで来た道を戻る。
こんな感じで大本営と繋がっていたらしい。
再び坂道を歩いて市ヶ谷記念館へ。というか殆どの見学者の興味はここにある。
明治7年に尾張徳川家の上屋敷跡に陸軍士官学校、そして昭和12年8月に大本営陸軍部等が設置された。戦後はGHQの接収をへて昭和34年に返還。その翌年、陸上自衛隊東部方面総監部として利用再開。平成12年の防衛庁(当時)の移転に伴い、大講堂とホールの一部を移築。以降、記念館として公開している。
模型を見ると判るが、三階建てだったものを二階建てに、バルコニーはそのままにタワーをかなり短くして再建。そのため建物の象徴だった桜の徽章と時計は外されて内部に陳列されていた。
「全然別物だのー」
見学できるだけありがたいけどね。
このバルコニー、昭和世代にはある事件と深く結びついて記憶されている。
余りに芝居めいたその演説。日本およびその象徴たる天皇制を深く愛していたことは真実だとしても、とても真剣に国家転覆のクーデタを企図していたとは思えない。奇しくも去年はその三島歿後50年の節目だった。あの事件とは何だったのか、そろそろ冷静に考えてみてもいいのではないだろうか。
「サルは大人の社会科見学だけでいい」 アツイね無駄に
ひとそれぞれよ(笑)。
まだ雨は降り続いていた。車寄せから玄関へ。
かなり立派だ。名建築と言いたい処だが…設計者は匿名。歴史遺産と呼ぶべきかな。
「これ正面についていた桜の紋章だよにゃ」
市ヶ谷駐屯地1号館と呼ばれていた時代の証しだね。
ここで靴を脱いで大講堂へ。
時代を語る表札。
=大講堂=
内部は資料館になっている。ここで簡単な座学を受けたあと自由見学(軍人の手紙など一部撮影禁止)。
御存じのように、昭和21年5月から昭和23年11月にわたって極東国際軍事裁判(東京裁判)の舞台となった。向かって左が連合国側、右が日本の被告席。また二階席の左に一般人、右に被告の家族の傍聴席が設けられた。
正面は玉座の間。
喚問台。
(連合国側のスピーチを神妙な顔で聞く軍部および政府要人)
東京裁判はドイツのニュルンベルク裁判と同様、戦争犯罪は国家ではなく個人に起因するとして“戦争犯罪者”を裁いた。戦勝国による一方的判決を不当とする見方もあるが。
(MPに取り押さえられジッとする大川。苦笑いの東條)
裁判のゆくえと無関係に印象に残るのは大川周明が突然前列の東條英機の頭を叩く場面。梅毒に侵された錯乱行為と言われているが真相は藪の中。超国家主義者として満州事変に関わったかどで、学者でありながら戦争犯罪者として裁かれることになった大川には、安易な軍拡と早計な英米との開戦の象徴として、東條の光り輝く禿げ頭が我慢ならなかったのかも知れない。
東京裁判と聞いて次に思い起こされるのが我が郷土の偉人、廣田弘毅(1878-1948)だ。石材店の息子から外交官、そして総理大臣にまで出世しながら、文官として唯一A級戦犯として死刑に処せられた。城山三郎の小説の影響もあるが、飽くまで外交で衝突を回避しようとした廣田が惜しまれてならない。なのに敢えて戦犯宣告の道を選んだと言われる。“黙して語らず”を貫いた。
(判決文を神妙な面持ちで聞く廣田弘毅)
語学堪能な廣田は自らにくだった審判を即座に理解すると、二階傍聴席の家族に黙礼してその場をさった。
お孫さん・広田弘一郎氏が語った逸話が忘れられない。昭和23年11月29日。小学四年生の弘一郎氏は巣鴨に収監された祖父と最後の面会を果たした。ガラス越しの祖父は「ちゃんと勉強してしっかり暮らしなさい」とだけ優しく話しかけたそうだ。廣田の刑が執行されたのは約ひと月後だった。
磨き込まれた玉座は…
紫檀とチーク材による箱根細工のような文様が施されていた。
菊の御紋があしらわれた表貼り。
そして採光。当時のままだ。
戦勝国側。
入り口側を見返す。二階の傍聴席が判るだろう。
奇麗な曲線で仕上げられている。
玉座と視線が合うように、床には3%勾配の傾斜が付いている。
床材は昭和9年のナラ。全部で720枚。左下の光沢のない部材は修復。
軍属が残した遺品が展示されていた。一部記録しておきます。
陸軍大将・荒木貞夫(1877-1966)の日露戦争を記念した軍刀《銘 龍光》。
陸軍大将・梅津美治郎(1882-1949)の愛刀《銘 寿命》。
硫黄島の攻防を指揮した栗林中将。
そして東條英機の揮毫。
僕は戦争に加担した(あるいはせざるを得なかった)人物に対して批判も賞揚もしない。ただ、こうした人たちがいたという事実だけを記しておきたい。
では二階へ。
傍聴席から大講堂を見下ろす。
=旧陸軍大臣室=
士官学校時代は校長室、昭和16年以降は陸軍大臣室。戦後は陸自東部方面総監室だった。
硝子戸越しにバルコニーを見る。ここで盾の会のメンバー四人と三島は檄文をばら撒き、七生報国の鉢巻を巻いて有名な演説をした。1970年11月25日の昼だった。
「どうして簡単に入れたの?」
富士演習場で陸自の体験入隊をするなど、益田兼利総監と三島は親しく交際していた。この日も和やかに会談は始まっている。そして、三島は愛刀《関の孫六》を鞘から抜いて自慢げに見せたらしい。一刹那、室内に緊張が走り、メンバーが総監を縛りにかかる。激しく揉み合いになり、三島は「手荒な真似はしたくない。おとなしくして欲しい」と冷静に言葉を発した。しかし、総監は負傷し、刀は隣室に続く扉に当たった。
くだんの扉。紹介まで閉じられていた。
瑕は三箇所。テープで目印されている。
「これが三島氏がつけた傷跡です」と女性スタッフ。
「三島氏」という奇妙な表現から、防衛省および自衛隊の“事件”に対する複雑な思いが伝わってくる。かつてならば「ミシマ」と呼び捨てで断罪したが、50年の月日が禊となったのか。しかし、事件と文学者“三島由紀夫”の解説は一切なかった。
二段目の疵。最上段は殆ど判らない。
三段目。これは明らか。
事件当時、官房長官だった中曽根康弘は「気が狂ったとしか思えない」とコメントを残した。三島の明晰な頭脳を知っていただけに、そうとしか言いようがなかったのかも知れない。
三島は狂ったのだろうか。そんなことはないと思う。でなければ周到にシナリオを準備し、死の舞台を完遂することなどできなかっただろう。高らかな哄笑で知られた自分の聲を搔き消した、自衛隊職員の罵声だけが唯一の想定外だった。
「みんなそのあたりを訊きたそーだけど」
訊けんわな(笑)。
文芸評論家・古林尚との対談のなかで「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がないある経済大国が極東の一角に残る」と喝破した。テープで二人の肉声に触れたのは1989年。バブル狂奔のさなかにあって、苛立つ様に形容した言葉の全てが当て嵌まっていた。三島は辛うじて自分が生きたい時代を生きて、人生を断捨離してしまった。
「皆が同じ顔をしている世の中はずっと続くかもね」
ようやく念願が叶った。ほんとは去年来たかったけどね。
外に出ると雨はやんでいた。
最後に旧歩兵第一連隊正門を見学。防衛省が移転してきた際に一緒に引っ越しした。なんとなくF・L・ライトのデザインに通じるものがある。
=厚生棟=
最後は自衛隊の仕事の紹介。戦闘機好き、艦船好き、戦車好きは愉しめそう。
こんなのがあったのでおサル挑戦。
自分でできあがりを鑑賞できる(笑)。
「文字通りハマり過ぎ」 ヤスコかよ
自分で言っているよ。
昭和史や防衛省の歴史に自衛隊の存在意義など盛りだくさんだった。やはり大人の社会科見学は愉しい。なかなか予約が取れないのが玉に瑕だが。
「全部おサルの仕事だし」 バイト代くれ
(おわり)
ご訪問ありがとうございます。