名建築を歩く「関西電力京都支社ビル」関西建築界の父の遺産(京都府) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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名建築シリーズ65

関西電力京都支社ビル(旧京都電燈本社ビル)

 

往訪日:2024年3月14日

所在地:京都府京都市下京区塩小路烏丸西入り東塩小路町579

アクセス:JR京都駅北口正面

■設計:武田五一

■施工:錢高組

■竣工:1937年

 

《曲面に窓を配置した隅角部に唸る》

 

ひつぞうです。河井寛次郎記念館を訪ねたあと京都駅まで戻りました。時間があるので関西建築界の父が残した遺産を見学することに。以下、往訪記です。

 

★ ★ ★

 

京都駅烏丸口を出ると、ひと際目立つベージュのビルがある。どう見てもモダニズム建築。しかし、関電は本社支社含めて現代風の無機質なオフィスビルばかり。なぜ京都支社だけこうなのだろう。その経緯を知って納得。ここは元は1887(明治20)年創業の京都電燈株式会社の本社だった。それが戦時中の配電統制令で分割精算。現在の関西電力に継承されたのだ。

 

「ふむふむ」サル 明治の建物なのね

 

 

今では新京都阪急ホテル日本生命京都ビルなどに囲まれて狭苦しいイメージだが…

 

(ネットより拝借いたしました)

 

竣功当初はこんな感じで駅前に君臨していた。尖塔を除いてほぼそのままであることも判る。正面から見ると判りづらいがL字型をしている。

 

 

設計は福山出身の建築家・武田五一(1872-1938)。東京帝国大学工部大学造家学科卒。辰野金吾門下のひとり。公費留学生として欧州各地の建築とデザインを研究。京都府技官や京都帝大教授など歴任した。そのためだろう。京都市役所、旧島津製作所、同志社女子大、京都大学本館など、目につく京都の近代建築の「設計者」をググると武田の名前が普通に出てくる。関西建築界の父と呼ばれることも頷けた。

 

 

公共建築、神社に個人宅、揚げ句は橋梁の意匠設計など、手掛けたジャンルや様式も留まることを知らない。黎明期の大建築家の特徴だ。しかし、そんな武田の作例としてはこの関電京都ビルは最晩年にあたり、モダニズムのエッセンスを随所に観察できた。内部も見学したいが、最近はどこのビルも部外者の入館に厳しいので遠慮した。

 

「そうよ。みだりに侵入しちゃダメよ」サル

 

 

正面のファザードは恐らく黒御影。大胆なグリッド格子で囲われた大窓。それを近距離で観ると…

 

 

壁面タイルもまたフラクタル幾何学のようにグリッドを描いている。

 

 

とりわけ感心したのはL字の隅角をRに処理している点。これは同時期に完成した安井武雄(1984‐1955)の高麗橋野村ビル(1930年)や大阪瓦斯ビルヂング(1933年)と似た意匠。アールデコ様式で括られがちだが、偶々似たデザインになったのか、或いは流行の源泉があったのか、不勉強なのでこれ以上判らない。

 

「勉強が足りんね」サル

 

ボチボチ頑張ります。

 

★ ★ ★

 

なお深掘りしたいと思いつつ、いまだ取材できていない名建築が近傍にある。この際、簡単に備忘録しておこう。いずれ忘れるし。

 

 

京都タワー

■設計:山田守

■施工:大林組

■竣工:1964年

 

竣工当時は物議を醸した京都タワーも今では京都玄関口の顔として浸透している。設計は東京中央電信局旧東京逓信病院で有名な逓信・病院建築の草分け、山田守(1894-1966)。

 

 

その作例の殆どが近年耐震対策で取り壊されてしまった。基層部の展望室の総ガラス張りの半球形や末広がりの躯体など、つぶさに見ればこの時代によくやったなと思わせる。特に半自動アーク溶接による現場溶接は(トラス構造が主流だった時代において)画期的だった。

 

 

JR京都駅ビル

■設計:原広司

■施工:大林組・鉄建建設・大鉄工業・フルーア・ダニエル・ジャパン・公成建設JV

■竣工:1997年

 

先日、京都国立近代美術館幕張メッセの設計でお馴染みの槇文彦先生が亡くなり、同世代は原広司先生のみになってしまった。時代の流れをひしひしと感じる。平安京の条坊を取り入れた平面分割や、階段状につながる垂直方向の展開に“空間”の繋がりを重視する原イズムが見て取れる。ガラスのアトリウムも開放的で美しい。この建築の鑑賞の眼目はむしろ内部にある。なのでいずれ別の機会に深掘りしたい。

 

以上、寸暇を割いての建築散歩だった。

 

「働かんかい!」サル

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。