旅の思い出「小林一三記念館」 阪急東宝グループを創った男(大阪府・池田) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

小林一三記念館

℡)072-751-3865

 

往訪日:2024年1月28日

所在地:大阪府池田市建石町7-17

開館時間:10時~17時(月曜休館)

入場料:300円(中学生以下無料)

アクセス:阪急宝塚線・池田駅から徒歩12分

駐車場:8台(無料)

 

《国登録有形文化財の長屋門》

(ネットより幾つか写真を拝借しています)

 

ひつぞうです。一月の終りに阪急東宝グループの生みの親、小林一三の記念館を訪ねました。実業家として大きな足跡を残しつつ、偉大な数寄者でもありました。その生涯をたどる資料館と私邸からなる施設です。

 

★ ★ ★

 

ちょうど一年前、中公文庫から再刊された熊倉功夫著『近代数寄者の茶の湯』を読んだ。ページを繰るうちに、この偉大な人物の生涯を一から追ってみたいと思うようになった。

 

 

逸翁こと小林一三(こばやし いちぞう)といえば阪急。そして宝塚歌劇。更には東宝映画。様々な顔を持つ一三の人生はどのように始まったのだろう。

 

 

この日、朝一番に阪急池田駅に降り立った。午後から崩れる予報だが、まだ斜光線眩しい冬の青空が広がっていた。

 

 

駅から10分あまりで到着。一三の自邸、雅俗山荘を中心に、小林一三記念館(白梅館)逸翁美術館、そして、池田文庫が集まっている。

 

(池田文庫)

 

池田文庫は演劇、鉄道、茶道、古美術関係の書籍が揃う、一三の寄附で完成した私設図書館。なので少し見学しただけ(内部撮影はNGです)。この日は盛りだくさん。最初に一三記念館を訪ねた。

 

まずはその生涯から。恥ずかしながら長らく関西出身と思っていた。

 

(壮年期の逸翁39歳)

 

小林一三(1873-1957)。山梨県(現韮崎市)出身の実業家。慶應義塾卒。学生時代は芝居好きで作家志望だった。卒業とともに三井銀行入行。だが、冷飯を喰わされるなど面白くないことばかり。腐っていた処、元上司で北浜銀行(摂陽→三和→三菱UFJ)を創設した岩下清周(いわした きよちか)から証券会社設立話に誘われて、サッサと自宅売却。辞表を提出する。ところが大阪に到着した途端に株式大暴落。全て白紙に戻り、家族を従えたまま露頭に迷う。そんな折、縁あって阪鶴鉄道に拾われ、鉄道事業の将来性を訴えて箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)を設立。経営の中心に躍り出る。沿線の人口拡大を目指して、宅地開発、箕面公園、宝塚遊園、そして、宝塚歌劇、阪急百貨店を次々に創設。鉄道会社による複合経営のモデルを作り上げた。

 

 

一部の苦労話はここ記念館ではあまり触れられていないが、『逸翁自叙伝』(初出1953年)に詳しい。粋人の素質は生まれながらのもので、例えば岩崎彌太郎五島慶太のような野心家の側面は感じられない。それでも幾つもの逆境を乗り越えて、成功を果たしたのは未来を見据える確かな眼があったからだろう。運に見放されても徒に腐らない。人生の秘訣をこの本は教えてくれる。

 

 

ということで到着。

 

 

時間があれば邸宅レストランで食事などと思っていたが、予約マストの高級店だった…。

 

「どーしてくれるのち!」サル 調べが甘い!

 

予約して再訪することにした。

 

 

では気を取り直して。

 

 

観覧料は300円。さすが阪急グループ、懐が深い。正しくは阪急阪神ホールディングスだけどね。でも一三が経営を始めた頃は営業を巡って阪神電鉄に訴訟を起こされたこともある。よく統合に至ったよ。

 

「いつの話よ」サル

 

 

この右側が資料館の白梅館

 

 

ここだ。早朝なのでまだ誰もいない。

 

 

一三愛用のステッキと帽子が出迎えてくれる。

 

 

凝っているね。これ、阪急電車の内装そのまま。

 

 

で外側の色はあの阪急マルーン。

 

「見たことないマークだね」サル

 

創成期の箕面有馬電気軌道の社章だよ。だからAとMなんだ。

 

 

「これは判る!」サル

 

お馴染みだね。1992(平成4)年に阪急の頭文字Hと花をモチーフに変更された。

 

 

当時の箕面はとんでもない田舎だったからね。動物園を造ったりして観光化を図ったんだ。

 

「温泉も造ったのきゃ?」サル

 

そうそう。有馬温泉の手前に宝塚温泉大プールを。有馬の温泉組合から猛反発を食らったそうな。

 

「客足奪われるもんね」サル

 

箕面動物公園入り口の電飾塔(1910年)

 

ただ、この動物園は失敗だったと本人みずから振り返っている。檻のない本格的な行動展示を目指したらしい。その意味では先見の明があったのだが、少し早すぎた。

 

「旭山動物園みたいな?」サル

 

 

地震などで地崩れすると猛獣が逃げ出す可能性があるし、そもそも熱帯の動物を飼えば飼料と光熱費が嵩んで仕方ない。箕面という場所は本来、山水をそのままに愉しむ場所だったから。

 

 

阪鶴鉄道の本社ビル。

 

 

開業時の梅田駅。周りには何もないね。梅田は“埋め田”の転訛と言われるように、かつては沼地のような湿地帯だったことが知られている。そんな場所によく造ったよ。

 

 

有名な逸翁語録に「乗客は電車が想像する」という言葉がある。何もない所に魅力ある装置を造り、客を集めるという発想だね。荒野だった池田に新興高級住宅地を造成し、ローン販売を始めたのはさすが元銀行員だ。

 

「それまで月賦という考えがなかったのにゃ」サル

 

“現金掛け値なし”が信条だった三井越後屋の流れを汲む三井銀行出身なのにね。

 

 

「ホントに何もない!」サル

 

大阪市内で家を持つなんて夢のまた夢だったから、マイホーム派には福音だっただろうね。

 

 

とまあ、出だしはすったもんだがあったが、次第に事業は軌道に乗る。

 

「電車の会社だけに」サル

 

 

宝塚歌劇団の発想は大阪三越が始めた少年合唱団の向こうを張ったものだった。つまり思いつき。本人曰く“イージーゴーイング”。

 

 

電鉄会社によるプロ野球球団設立を説いたのも一三だと言われている。

 

 

こんな感じで京都から神戸まで結ぶ一大路線網が形成されたが、スタートは箕面線宝塚線だった。

 

 

そして宝塚大劇場が完成。

 

 

ここから多くの女優が育っていった。

 

 

右下は日伊合作映画「蝶々夫人」(1955年)に出演した八千草薫さん。本当に美しい。晩年まで特有のコケットリーを失わなかったね。因みに夫で映画監督の谷口千吉の影響で登山愛好家だったことでも知られている。

 

「無理やり山に繋げてない?」サル

 

判る(笑)?

 

 

初演は桃太郎が主題の「ドンブラコ」。まだ子供のお遊戯の範疇だった。

 

 

そして舞台は東京へ。

 

 

有楽町の東京宝塚劇場。今観ても美しいモダニズム建築。現在は東京宝塚ビルが建っている。

 

 

日比谷映画劇場は典型的なアールデコ調。

 

「どこにあるの?」サル

 

もう建替えられている。今の日比谷シャンテだよ。

 

 

東宝は邦画はもとより洋画ブームの牽引役だった。

 

 

東京での仕事は娯楽に留まらない。関西での手腕を買われて、東急東横線田園都市開発にも参加する。しかも無報酬。戦前の東京電燈(現東京電力)の経営不振を改善したのも逸翁だった。

 

「東横線も高級イメージだもんにゃ」サル

 

 

衰えを知らない一三は戦争の跫が近づく時代に商工大臣の座につく。戦後は戦災復興院の総裁に迎えられるが、第二次近衛内閣に入閣していた廉で公職追放の憂き目に合い、辞任することになった。1946年のことだ。自決した近衛文麿は茶の湯仲間でもあった。

 

 

その後、余生をこの雅俗山荘で過ごした。仲間とともに好きな道楽話に花を咲かせて。

 

 

古美術蒐集家や茶人としての逸翁。そして鉄道、娯楽、百貨店など、数多くの事業のパイオニアだった実業家としての小林一三。実は東京の財界や政界でも手腕を振るったことを初めて知った。そして『自伝』に記されているように、三井銀行入行が決まり、郷里の山梨から富士川まで出た時に甲州人が一番好きな鮪に舌鼓を打ったという挿話を読んで、やはり、一三も人の子、人間の喜びとは存外素朴なものだと気づかせてくれた。

 

「また続くわけね」サル 長そーね

 

(つづく)

 

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