企画展「国吉康雄展 安眠を妨げる夢」(茨城県近代美術館) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

国吉康雄展 安眠を妨げる夢 

福武コレクション・岡山県立美術館のコレクションを中心に

 

往訪日:2023年10月28日

会場:茨城県近代美術館

所在地:茨城県水戸市千波町東久保666‐1

会期:2023年10月24日~12月24日

開館時間:9時30分~17時(月曜休館)

観覧料:一般1,000円 高大生730円 小中生370円

アクセス:北関東道・茨城町東ICから15分

※撮影可能な作品あり

※まもなく終了です

 

 

ひつぞうです。怪我の功名で珍しく会期始めに訪ねました。国吉康雄のコレクションといえば、出身地の御当地企業・福武書店(現:ベネッセ)と岡山県立美術館。その主要作品をベースに生涯をたどる回顧展でした。以下鑑賞記です。(長いよ)

 

★ ★ ★

 

 

国吉康雄(1889-1953)。岡山県出身の洋画家。若くしてアメリカに移住。ルノワール、セザンヌの影響を受けつつ、前衛画家集団ペンギンクラブを拠点とし、幻想的なモダニズムの作風を確立。戦時中は難局に立たされるが、戦後は在米アーティストの支援活動を牽引。芸術の都ニューヨークの確立に貢献。しかし、移民法の壁に阻まれて、アメリカ国籍を得ぬまま63歳で客死した。

 

長い間、国吉康雄に対して「悲しい人生」あるいは「遅れて評価された画家」と云ったイメージを抱いてきた。最初に国吉の名前を記憶したのは、いつもの『原色日本の美術㉛近代の洋画』。その中の《横たわる女》である。

 

(参考資料)

《横たわる女》(1929年) アーティゾン美術館蔵

 

少女のような童顔ながら腰つきが異様に豊かで記憶に焼きつく人物画だった。静謐な詩情を湛えながらも、どこか淫猥な印象をうけるのは、下半身を不自然に曝しているからだろうか。次に記憶に現れるのは《バンダナをつけた女》。代表作のひとつといえる。

 

(出展作品)

《バンダナをつけた女》(1936年) 福武コレクション蔵

 

玄人女なのだろうか。退嬰的なムードが漂う。目まぐるしく作風を進化させた国吉らしく《横たわる女》と比較してパステルのように塗りは薄く、構図は大ぶりである。グレーやブラウン主体の色調は冬の空気を感じさせる。この作品、たしか、福武書店の雑誌、もしくはなにかで大学生の頃に観たように思うが、はっきりしない。

 

いずれも陰のある淋しげな佇まい。そうした画風に加えて、中央画壇から遠く離れた異国で“不遇”のうちに死んだという、不確かで断片的な情報のパッチワークが“架空”の物語となって、いつしか僕のなかに定着していた。今回の往訪は記憶のピースを嵌め直すことにあった。

 

 

「さっそく観て行こうかにゃ」サル

 

 

序章 安眠を妨げる夢

 

《安眠を妨げる夢》(1948年) カゼイン、ゲッソパネル 福武コレクション蔵

 

戦後発表された作品で、アメリカでは第一級の画家として既に君臨していた。サーカスの一場面を描いたものだろう。さて、右の人物。旨く相手をキャッチできたのだろうか。それとも…。国吉は自分の絵を解題することはなかった。飽くまで観る者に任せるという立場だった。

 

「難解そう…」サル

 

観たままでいいと思うよ。

 

画業後半生にあたる戦後(1940年代以降)の作例として、このカゼインを用いた油彩画を複数制作している。若き日に交流したジュール・パスキンの影響と言われる。カゼインは人口膠のような展色剤で、透明感のある色彩を可能にする。ここに至るまでの人生。一体どのようなものだったのだろうか。

 

 

第一章 ニューヨークへ

 

国吉は岡山の中出石町(現:岡山市北区)に人力車夫の一人息子として生まれた。幼い頃から図画において驚異的な才能を発揮。『岡山縣史』にその天才ぶりが書き残されている。指導にあたった四条派の画家・井上芦仙(1873‐1941)が弟子に取りたいと申し出たくらいだ。なお、同級生には、やはり天才の内田百閒がいた。

 

1904年に岡山県立工業学校に進学するが、日本は日露戦争へ突き進んでいた。国家予算2億円に対して借金8億円!しかし、不安は景気より徴兵。となれば選択肢は海外労働しかない。父・宇吉は200㌦(現在の400万円に相当)を用意した。

 

「人力車夫だと大変だったんじゃない」サル

 

それだけ息子に期待したんだよ。岡山に陸軍第17師団が設置されたのは、将に出国の年だった。渡米後は農園や鉄道などで肉体労働に従事しながら、1916年、27歳でアート・スチューデント・リーグ・オブ・ニューヨークに入学する。

 

(そこで出会った盟友がモンパルナスの貴公子パスキンだった)

 

Leagueとは「同盟」を意味する。則ち、同盟を結んだ学生主体の学校だった。移民の子が多く、後の大物アーティストを多数排出した。オキーフ、マン・レイ、ロックウェル、ベン・シャーン、イサム・ノグチ、ポロック、リキテンシュタイン、ラウシェンバーグ、トゥオンブリー、フランク・ステラ。ちょっと挙げただけでこの陣容!

 

「あんまり判んない」サル

 

《自画像》(1918年) 福武コレクション蔵

 

1917年に独立美術家協会展で画家として出発。ルノワールセザンヌの影響を色濃く反映した静物画や風景画を発表する。

 

《鶏小屋》(1921年) 福武コレクション蔵

 

シャガール風や輪郭線のない朦朧体など、続く20年代は手探りの時代だった。いわゆるクニヨシズムが確立されるのはまだ先のこと。

 

《二人の赤ん坊》(1923年) 福武コレクション蔵

 

むしろ、アメリカのフォーク・アートを取り入れて脚光を浴びるようになる。

 

「何?それ」サル

 

例えば看板や広告。西部開拓時代の旅回り絵師の素人絵画だ。一般には「芸術」の範疇に属さないが、それを積極的に評価した。結果的にアカデミズム絵画とも近代絵画とも異なる“アメリカ的なアート”ということで、米国内での評価が一気に高まった。

 

 

第二章 狂騒と黄金の20年代 パリを経てアメリカと故国

 

1925年に盟友パスキンの誘いで渡仏。まさにエコールドパリの時代。サーカスや劇場の踊り子を取材。独自のエロティシズムを開花させる。もちろん、ピカソ藤田嗣治との交流も多大な影響を与えただろう。

 

《化粧》(1927年) 福武コレクション蔵

 

《化粧》は大阪・梅田画廊で福武哲彦が購入。總一郎と親子二代にわたる蒐集の口火を切った記念碑的作品。

 

1929年にはニューヨーク近代美術館で開催された「19人の現代アメリカ画家展」に選出。大成功を収めた。その二年後の1931年、遂に国吉は凱旋帰国を果たす。10月14日日本橋三越での記念個展は藤田嗣治と(その紹介を受けた)有島生馬の尽力の賜物だった。

 

藤田はこう書き残している。「アメリカ在住の日本人画家中の頭目であるのみならず、同国の大家と列を同じうし(中略)名声アメリカ大陸を風靡しつつある、小生の最も敬意する大家」と。

 

「ベタ褒めだの」サル

 

しかし、個展は失敗に終わる。29点のうち3点しか売れなかった。「国吉君の絵はなんだかその人柄とすっかり一致していないような感がしている」と、有島は国吉の絵に感じる違和を正しく読み解いていた。

 

《日本の張り子の虎とがらくた》(1932年) 福武コレクション蔵

 

懸命に画架の前に立ったのだろうが、やはりこの絵に感じるのは敗北の匂い。もはや日本に居場所はない。そう感じたらしい。

 

 

第三章 新たな表現の模索 時代の役割を担うために

 

帰国した国吉は1932年に母校の教授に着任。多忙を極めるようになる。一方で欧州ではファシズムが擡頭。再び戦争の足音が近づいていた。

 

《もの思う女》(1935年) 福武コレクション蔵

 

そんな混沌とした時代ながら、この時期こそ、クニヨシズムが開花した円熟期だった。写実性が復活し、パスキン風の歪んだデッサンと(のちにクニヨシホワイト、クニヨシブラウンと呼ばれた)パステルのような暈した色が、倦怠感の漂う女の存在を強く訴える。だが、当のパスキンは悲恋に絶望し、五年前のある日、命を絶っていた。

 

《バンダナをつけた女》(1936年) 福武コレクション蔵

 

ここまで観て、国吉は不幸だったのだろうかと改めて問うてみる。アメリカでは第一級の画家。他方、祖国と縁の切れた根無し草。最初の妻キャサリンとの離別。狂乱の時代の終焉と、襲い来る戦争の予感。画家個人と世界を覆う(芥川風にいえば)ぼんやりとした不安。そんな心持ちが画面のなかに見え隠れする。絶望はなかったが、哀しみがないと言えば嘘になる。そう理解した。

 

 

第四章 戦争の時代に

 

《逆さのテーブルとマスク》(1940年) 福武コレクション蔵

 

様々な意味で著名な作品だ。1992年にニューヨーク近代美術館ピカソ《アヴィニヨンの娘たち》の習作購入のために、この名作を福武書店に売却したことは、当時ちょっとしたニュースになった。

 

「まだ日本もバブルの余力があったしの」サル

 

メタフィジックに積み重ねられた静物について国吉の言及はない。発表後まもなく日米は戦闘状態に陥り、国吉は敵性外国人のレッテルを貼られるが、アメリカ政府支持を宣言。日本を誹謗するプロパガンダに加担する。国吉の“反日主義”には様々な意見がある。だが、反戦ではなく交戦のためのポスターを描いたことは紛れもない。

 

《夜明けが来る》(1944年) 岡山県立美術館蔵

 

本当の心のうちはどうだったのだろう。戦争加担者として一方的に非難され、日本と訣別した藤田嗣治は、母国を責めつつ恋々とした国吉の態度をどう見ただろう。ただ、この《夜明けが来る》を素直に観れば、浮かんでくるのは茫然と哀しみにくれる画家の姿だ。

 

 

第五章 祭りが終わって

 

《祭りは終わった》(1947年) 岡山県立美術館蔵

 

戦後の国吉はアメリカのアートシーンとビジネスとしてのマーケット拡大に貢献した。

 

《鯉のぼり》(1950年) 福武コレクション蔵

 

だが作品は虚無的でノスタルジック。カゼインやグアッシュを用いた色彩感豊かな作例が多いものの。

 

(撮影OK)

《ミスターエース》(1952年) 福武コレクション蔵

 

1956年に合衆国政府は移民帰化法を認めると声明。だが、国吉は胃癌に倒れ、国籍取得の夢は叶わずに終わる。最期の言葉は「市民権は?」。63年の生涯だった。

 

 

後年は仮面のモチーフを多数残した。即物的で判りやすいモチーフだが、謎めいた画面に込められた意図は判らない。国吉は自作を解題しないことで知られる。繰り返しになるが。

 

★ ★ ★

 

=常設展示室=

 

印象的だった作品を数点備忘録。

 

スタッフに訊いたら全点撮影可だそうだ。

同じ画家が並んでいるのに横須賀美術館は全部NGだったものね。

 

「あんまりいろいろ言わない方がいいよ」サル

 

ここがそれだけ素晴らしいということよ。公開方針は各館の自由だしね。

 

まずは中村彝の作品をザーっと。

 

中村彝《裸体》(1916年)

 

下落合のアトリエに移って8日目に描き始めた入魂の作。モデルは親友、中原悌二郎が使っていたお島という田舎娘。「すこぶる天真爛漫で健康的でいいのだが、はなはだ下品で困っている」と友人の伊藤隆三郎に宛てた手紙の中でこぼしているのが可笑しい。

 

「どう下品なのか気になゆ」サル

 

こういうと一悶着起こしそうだけど、もう少しキレイな人を選べばね。

 

「当時は肉づきの良さが健康の象徴だったって」サル

 

じゃ仕方ないね(笑)。

 

中村彝《静物》(1916年)

 

中村彝《静物》(1919年)

 

これ、アトリエにあった机と水差しだ。

 

(参考再掲)

※左端ですね

 

中村彝《カルピスの包み紙のある静物》(1923年)

 

壁龕は下の写真と同じ。

 

(参考再掲)

 

中の水差しは二コマ上の絵に使われている。蓋は失われたみたい。

 

横山大観《瀟湘八景(江天暮雪)》(1913-1914年)

 

大観先生の朦朧体。墨一色で表現する空気感が素晴らしい。やはり、ただの酒飲みではないね。因みに岡倉天心五浦海岸が大好きで、ここに日本美術院を開校したので、茨城は大観、観山、武山春草など、明治の日本画家のゆかりの地になっているんだよ。

 

菱田春草《落葉》(1909年)

 

こちらは春草の代表作。僕の知る限り、五隻の連作になっているはずで、過去、福井県立博物館所蔵の品を鑑賞している。ちなみに重文指定は東京の永青文庫の所蔵品。左の二曲は杉の若木、右は枯れ葉の揺らぐ柏という対比。林相にも変化をつけた春草らしい繊細な屏風である。

 

 

拡大すると均一な輪郭線や色のグラデーションなど、こだわりが見えてくるね。

 

岡鹿之助《観測所(信号台)》(1926年)

 

岡鹿之助は子供の頃から好き。冬の雪景色もいいけれど夏の青空も好い。ブルターニュ地方のトレガステル滞在の三箇月に仕上げたものだそうだ。それまで岡は「なんて自分はヘタクソなんだ」と悩み続けていた。これはその悩みを打ち破った会心の作。岡って藤田嗣治に師事したんだね。藤田が弟子を取ったのも意外だけど、全然マチエールが違うので信じられなかった。

 

「でもどちらも白がキレイな画家だの」サル

 

そういえば!

 

 

誰もいないんだよね。贅沢な話だよ。

 

「地方美術館の好い処だの」サル

 

だね。

 

熊岡美彦《ロシアの女》(1928年)

 

熊岡美彦(1889‐1944)は石岡出身の郷土画家。東京美術学校では萬鐵五郎が同期生なんだ。厭だったろうな(笑)。この絵、佐伯祐三晩年の名作《ロシアの少女》とクリソツでしょ。

 

「そーかにゃ」サル

 

これ観てよ。

 

(参考資料)

佐伯祐三《ロシアの少女》(1928年)

 

衣服、ネックレス、髪型。よく似ている。「うち、つこーてくへん?」って、当時パリに下宿していた熊岡の部屋にロシア娘が売り込みに来たそうだ。同じ建物に佐伯も下宿していたので間違いないだろう。

 

「佐伯祐三は超ラフだの」サル こーしてみると

 

衰弱していたし、渾身の思いで描いたんだろう。むしろ力強い傑作に仕上がった。

 

 

対して、熊岡の絵はやや厚塗りで構図も色彩もバッチリ決まっている。決まりすぎて何か物足りない。いい画だけど。

 

榎戸庄衛《初秋の裸婦》(1949年)

 

マティスの影響が色濃い丁寧な作品。榎戸庄衛(1908‐1994)は太平洋美術学校で腕を磨いた茨城の洋画家。後年、具象から表現主義風に変化。官展中心に発表していたが、そのうち孤高の画家になった。この展示作はまだ具象の域に留まっている。

 

三岸節子《エッフェル塔》(1985年)

 

三岸さんの絵。いつ観ても男らしいよ。

 

木村忠太《丘の上の農家B(ポルトガル)》(1987年)

 

一気に現代の作品に。

 

「なに描いてあるのかぜんぜん…」サル

 

判る人には判るし、好きな人は好きなタッチだね。でも最近は流行らないかな。香川県出身の木村忠太(1917-1987)は27歳で帝国美術学校に入学したいわば苦労人。パリの絵描きとして一生を終えた。ギリギリ具象の域内で、即興による色とタッチで魅せた。パレットに厚さ11㌢の絵の具の塊りができていたのは有名だ。

 

「昔の絵描きさんだの」サル

 

次のコーナーは色彩のマジックだよ。

 

 

「また訳の分からんのが…」サル

 

靉嘔《虹》(1962-64年)

 

これなんて“訳判る”でしょ。

 

 

グラデーションと筆跡が音楽みたいで気持ちいいよ。

 

元永定正《作品、1964》(1964年) エナメル・麻布

 

エナメルの質感をとことん追求した元永定正。溶解する質感がいいね。

 

「もう全然意味が」サル

 

斎藤義重《無題・黒》《無題・赤》(1966年) 油彩・板

 

斎藤義重(1904-2001)はこれからも重要性を帯びていく美術家だろうね。もの派に多大な影響を与えたんだ。東京で育ち、専門的な美術教育を受けずに、文学や美術、とりわけ未来派ロシアフォルマリズムなどに傾倒した。斎藤の出世に一役買ったのは(やっぱり)瀧口修造。60年代には世界的に評価が高まり、現代美術に大きな足蹠を残した。

 

「…むり」サル

 

やっぱり?でもコントラストが面白くない?色とか形とか構成とかの。

 

恩地孝四郎《楽曲による抒情 ドビュッシー「子供の領分」より「象の子守歌」》(1950年)

 

恩地孝四郎(1891‐1955)は創作版画や抽象版画の第一人者。学生時代にカンディンスキーに感銘を受けてこの道に進んだ。北原白秋萩原朔太郎など詩人との交流も深く、自身、多くの著作を残している。だからだろうか。とっても繊細。それ以上は判らん。ドビュッシーは好きだけど音楽は難しい。

 

「サルも」サル

 

長沢秀之《被膜5》(1947‐)

 

大きい点と小さい点の間に距離を感じるね。でもどこか変だよ。

 

「普通小さいものは奥で、大きいものが手前だの」サル

 

そうそう。逆だよね。視覚の混乱によって、大小の点群の間に被膜を生み出しているんだって。

 

中西夏之《擦れ違い/S字型還元》(2011年)

 

中西夏之(1935-2016)は東京生まれで東京藝大卒。高松次郎、赤瀬川源平と仲間。といえばハプニング系。瀧口修造、澁澤龍彦、土方巽など異ジャンルの文化人とも交歓。この水玉の集積の擦れ違いのモチーフは最晩年の作例だ。曰く「遠のく紫、近づく白斑」。

 

「どーゆーこと?」サル

 

眼の前に透明なアクリル板があると仮定するでしょ。紫の点はあっちにいっちゃったもので、白い斑は今まさに向こうから近づこうしている塊りってわけよ。

 

「疲れた」サル

 

村山密《ルーアンの大聖堂》(1993年) ジェマイユ

 

じゃ、最後は美しいものを。

 

ガラス片を立体的に重ねたガラス絵画ジェマイユだね。詩人のコクトーが宝石(gemme)と七宝(émail)から造った言葉だ。村山密(1918‐2013)はその名手だった。写真だと伝わらないなあ。

 

ということで今回も盛りだくさん。愉しかったよ。

 

「よーござんした」サル

 

遅くなって、魚は水戸のスーパーで調達することになったあせ。 ごめん。

 

「泣きゅ」サル

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。