企画展「細川護立の愛した画家たち」(永青文庫・東京) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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細川護立の愛した画家たち

ポール・セザンヌ 梅原龍三郎 安井曾太郎

℡)03‐3941‐0850

 

往訪日:2023年9月17日

会場:永青文庫

所在地:東京都文京区目白台1‐1‐1

会期:2023年7月29日~9月24日

開館時間:(月曜休館)10時~16時30分

観覧料:一般1000円 大高生500円

アクセス:有楽町線・江戸川橋駅から徒歩15分

※すべて撮影禁止

※終了しました

 

《かつては細川家の事務所だった》

※写真の一部をネットより拝借いたしました

 

ひつぞうです。ひと月前、目白台の永青文庫の夏季展示を見学しました。肥後藩16代当主で、宮内庁官僚や貴族院議員を務めた侯爵・細川護立(ほそかわ・もりたつ)が、家伝来の美術品保護のために1950(昭和25)年に設立しました。初代・細川藤孝(1534-1610)を筆頭に、代々文武に優れた家系。特に護立侯は“美術の殿様”として知られ、白樺派梅原龍三郎安井曾太郎などと親しく交わりました。以下、往訪記です。

 

★ ★ ★

 

細川護立(1883-1970)との出逢いは、今年の春先に訪ねた聖徳記念絵画館において、奉納者のひとりとしてその名前を見出したことに始まる。

 

(参考資料)

近藤樵仙画 細川護立奉献 《西南役熊本籠城》1926(大正15)年

 

この往訪で、護立という人物が元総理・細川護熙氏の祖父にあたり、学習院時代に白樺派の志賀直哉武者小路実篤らと交誼を結んだ文化人だったことを知った。

 

護立侯と博子(かねこ)夫人。夫人もまた岡山藩池田家の出身。写真は1926年の欧州外遊の頃。

 

知れば深掘りしたくなるのがサガ。

 

 

偶然にも永青文庫で護立侯を切り口に所蔵品の夏季公開が始まっていた。行くことにした。

 

 

永青文庫は細川家の菩提寺・建仁寺塔頭源庵と、初代、藤孝の居城・龍寺城から一字をとった。広大な旧江戸下屋敷の中央に位置し、また隣には椿山荘が並ぶ。そのため、どの駅から歩いても距離があった。江戸川橋駅から神田川の流れに沿って最後に胸突坂を登る。先には講談社ゆかりの野間記念館があるが、建替えのため休業中だった。早く訪ねるべきだった…。

 

 

大理石の立派な門構え。開館時間にならないと開かないらしい。隣りには和敬塾がある。本館は護立侯の旧邸宅。所属大学を問わない精神修養を柱とした男子学生寮で、歓声がグランドで湧きあがった。和敬塾の体育祭はその規模で知られ、ちょうどシメとなる騎馬戦の真っ最中だった。

 

 

時間になった。晴れの予報だったが回復が遅れているのだろう。午前中は雲の多い天気だった。まだ夏の盛り。油断すると藪蚊の餌食になる。気がつけばあちこち食われていた。

 

「痒すぎゆ~」サル💦

 

 

元は細川家の家政所(事務所)として1930(昭和5)年に建設された。護立侯は終戦から亡くなるまでここで暮らしたそうだ。

 

 

永青文庫と言ってまず浮かぶのは菱田春草のコレクション。7年前に横浜そごう美術館で落葉(1909年)を、そして遥か昔、やはり重文の《黒き猫》(1910年)を鑑賞した際に「永青文庫」を記憶した。(ただし、後者は熊本県立美術館に寄託されている)

 

 

建物内部も含めて撮影禁止だ。グレース侯妃や作家のアンドレ・マルローも訪れた歴史の舞台でもあり、建物自体が美しい名建築。天井が高く、往時のソファが今でも設えられている。鑑賞の最後に、是非座ってその感触を確かめよう。

 

それでは鑑賞。順路はエレベーターであがって四階から。

 

★ ★ ★

 

まずは安井曾太郎、ついで梅原龍三郎の諸作が並ぶ。この二人。同い年で同じ京都生まれ。若い頃からライバルで、戦後洋画壇の二大巨匠として時代を築いた。でも画風と性格が全然違うんだよ。まずは略歴を。

 

「ふむふむ」サル

 

 

安井曾太郎(1888-1955)。浅井忠主催の聖護院洋画研究所卒。19歳で渡仏。ルネサンス絵画やセザンヌなど、幅広く西洋絵画(とりわけセザンヌ)の影響を受ける。“展覧会芸術”を否定し、後年、有島生馬らとともに一水会を結成。終生の活動の舞台とした。代表作《金蓉》《孫》など。

 

他方の梅原先生はと云うと

 

 

梅原龍三郎(1888-1986)。やはり聖護院洋画研究所卒。20歳でパリに渡り、ルノワールに師事。白樺派と交流。日本画が脱落して以降の国画会を率いた。徹底して、鮮やかなな色彩と大胆な筆使いが持ち味。軽井沢の文化人サロンの中心人物でもあった。代表作《紫禁城》《横臥裸婦》など。

 

「なんとなく顔も似ているにゃ」サル

 

いやいや。安井は穏やかで割と神経質。梅原は大胆奔放で短気なんだ。

 

安井曾太郎《座像デッサン》1929(昭和4)年頃

 

表情を捉える端正な筆致が安井の人柄を物語っているね。

 

安井曾太郎《承徳の喇嘛廟》1937(昭和12)年

 

これは河北省承徳のラマ廟に滞在した際の制作。一水会第一回展に出品した。承徳は清の皇帝の別荘があった街で、安井は展覧会の審査のために、ここを訪れている。そして、体調を崩したようだ。6月21日の書簡にその様子が記されていた。

 

「病弱だったのち?」サル

 

そうみたいよ。

 

残念ながら作品を紹介できないが、安井による横山大観像も展示されていた。

 

1941(昭和16)年、護立侯と児島喜久雄が発起人となって築地の新喜楽で二十五日会が開催された。横山大観を写生するイベントだ。他に梅原龍三郎、日本画の小林古径安田靫彦も参加している。安井は先生がよく動くと零している。それでも大家らしい威風に満ちた作品を仕上げた。かたや梅原は。

 

梅原の描いた大観先生だ。

 

梅原龍三郎《横山大観像》1942(昭和17)年

 

ジッとしていることに飽きたのだろう。厭そうな味のある作品だ。安井に「先生ジッとしてください」と窘められたあとかな。

 

 

「酒が必要だったんじゃない?」サル

 

かもね。料亭で写生会は無粋だったか(笑)。お開きのあと一献つがれたんじゃない。

 

そして、今回の企画の眼玉がこれだ。

 

ポール・セザンヌ《登り道》1867年 水彩

 

滅多に公開されないセザンヌの名品。1926(大正15)年2月、万国議員商事会議に参加するため、ロンドン経由でパリに降り立った若き日の護立侯は、翌年7月の帰国まで存分に欧州の空気を吸った。そして、ベルネーム=ジューヌ画廊でこの《登り道》を即座に購入した。セザンヌが第一回印象派展に出品するのは1874年。つまり最初期の作品といえる。

 

セザンヌのパトロン、ヴィクトル・ショクの旧蔵品でもあり、後年の作風に比して、自由で伸びやかな筆致が眼を惹く。1930(昭和5)年の武者小路から届いた手紙には「奈良の志賀に見せれば喜ぶだろう」という意味の一行が記されていた。

 

「ちょうど奈良の家ができた翌年だにゃ」サル

 

梅原龍三郎《紫禁城》1940(昭和15)年


当館には梅原の書簡230通が収蔵されている。1909年2月に紹介状もなくルノワールの自宅に押し掛けていった梅原。その押しの強さなくして、この豪快で開放的な作風は生まれなかっただろう。

 

西安・青龍寺跡出土 如来坐像

 

一抱えはある金箔痕が残る大理石の石仏。意外にいろいろなものがある。

 

このあと三階の常設コーナーに移動。焼き物、絵画、彫刻ととにかく幅広い。興味深かった作品は以下の通り。

 

二代 諏訪蘇山《染付木魚香合》

香取秀真《銅獅子水滴》1925年 鋳金

中村岳陵《魔女》1960年 絹本彩色

北出塔次郎《枇杷図陶筥》

 

そして

 

藤島武二《婦人像》

 

藤島武二もまた、様々なタッチの作品を残しているが、これは戯画的。人物とその場の雰囲気がよく伝わってくる。女の白粉の匂いまで伝わってきそうだ。

 

「おっぱいモロダシだの」サル

 

まったく気にしてない感じがいいでしょ。

 

ひとつ面白い画があった。タイトルは《鶴見岳》。別府に聳える名山だ。絵そのものは何の変哲もないが、作者が武者小路という点が興味深い。武者といえばカボチャの絵。だが、こんな写実画も描いていた。これに関して護立に宛てた武者自身の手紙(昭和14年3月17日)が残っていた。

 

“僕の鶴見岳、君が気に入ってゐるなら、幸売れなかったからいつでも進呈する。君の処にはいい画がうんとあるので進呈するのは気がひけるが、君がそれでももらってくれる気があれば近日本が出来るからそれと一緒にとどけさせてもいいと思ふ。”

 

「なんか煮え切らない言葉だの」サル

 

自信がないんだね(笑)。

 

遺族が語っているように、もともと絵の才能は乏しく、細君の方が腕に覚えがあったらしい。もとより白樺派が芸術好きな集まりだから、下手だろうが上手かろうか筆をとったのかも知れないが。それでも自分の技量は知っていたのだろう。天然キャラの武者にしては普通な感じで、逆におかしい。

 

「それでもコレクションに加えたモリタテさんがすごい!」サル 友達思い!

 

モリタツだよ。

 

仲良し三人組(志賀先生、護立翁、武者先生)

 

晩年まで皆仲良しだったそうだ。

 

書籍に眼を通す晩年の護立翁

 

年に四回、テーマを変えて公開される。HPをチェックして、名品公開の際は是非訪ねよう。数年に一度しか公開されないものもある。このあとは何時ものように都内でランチだ。
 

「メシメシ」サル

 

(つづく)

 

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