史跡・重要文化財 適塾
℡)06-6231-1970
往訪日:2023年4月23日
所在地:大阪市中央区北浜3-3-8
開館時間:(月曜休館)10時~16時
料金:一般270円 大高生140円
アクセス:御堂筋線・淀屋橋駅から徒歩約5分
※一部を除いて撮影可能です
《オフィス街にポツンと“陽だまりの樹”の世界》
※肖像画に関してはネットよりお借りしました
ひつぞうです。梅田スカイビルに昇った翌日も(飽きることなく)大阪街歩きでした。天気があまりに良すぎてジッとできません(笑)。
「少しくらいおうちでゆっくりしたい」もー
今回は日本近代医学の父と仰がれる緒方洪庵先生の功績をたどる旅です。以下、往訪記です。
★ ★ ★
大阪北浜。商都・大阪の中心として栄えてきた場所だ。証券取引所や旧住友系企業のオフィスビルが立ち並ぶ。この日僕らは初夏の陽光を浴びながら、御堂筋線・淀屋橋駅からニッセイビル方面に向かった。久しぶりに見る銀杏並木の六車線道路。大阪都市計画の父、第七代大阪市長・關一(せき・はじめ)の英断と、1970年の大阪万博開催を契機に全線一方通行に踏み切った大阪人の柔軟性が生み出した幹線道路だ。
「大阪人は柔軟なのち」
都合のいい時だけ大阪人気取りだよね。
かつて勤務したビルが間近に見える。その昔、建築基準法で制限されていた御堂筋界隈では大阪ガスビルが一番高く、大坂城も見えたという。僕が務めていた頃には、そろそろ高層ビルが建ち始めていた頃で(2007年に一気に緩和されたためだろう)見違えるほど、のっぽビルだらけになってしまっていた。
「大阪の摩天楼だの」
そんなひと気のない休日のオフィス街に、取り残されたように立派な瓦葺きの建物があった。1883(明治13)年開園の大阪市立愛珠幼稚園だった。現在も現役。国の登録有形文化財に指定されている。
ちなみにかつての銅座の跡でもある。
通りにかつての醫学生たちの銅像が見えてきたら適塾はすぐだ。
「なにここ?」
近代医学の父、緒方洪庵先生の適塾だよ。
「コーアン?」
緒方洪庵(医者でも阪大OBでもないので固有名詞で以後記載)は、幕末に活躍した蘭学の第一人者で、その塾が《適塾》なんだ。前回の赴任時に職場近くにあるとは聞いていたけど訪ねるのは初めて。
ここでおさらい。おサルが判らないので。
「知らんね」 ほっとけ
緒方洪庵(1792-1863)。幕末期の蘭学者・医者。備中(現在の岡山県)足守藩士の子に生まれる。父の留守居役着任とともに大坂に移り、蘭学を修める。その後、種痘の導入、コレラ予防などで功績をあげ、近代医学を根づかせる一方、北浜に蘭学塾《適塾》を開設。橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉など、後進にも多大なる影響を遺した。
「だいたい判った」
え!もう?
「理解力はある」 こうみえてIQ高い
恐れ入りました。
★ ★ ★
ということで重要文化財としての建築と、洪庵が遺した事績を追っていこう。
僕も不勉強だったんだけど、ここって大阪大学の施設なんだよね。
「なんで?」
詳細は後に譲るとして、洪庵の死後、子孫の住居兼医院となるんだけど、適塾の機構は波華仮病院に引き継がれ、幾つかの統廃合をへて1931(昭和6)年に大阪帝国大学になる。現在は総合大学だけど阪大といえば医学部。なので豊中に移転する前は医学部キャンパスは中之島にあったのよ。
「ふむふむ」
かたや奇蹟的に戦禍を免れた建物としての適塾は、1942(昭和17)年に緒方家と日本生命保険が阪大に寄贈。こうして機構も建物も適塾=阪大になった。1980(昭和55)年に一般公開がスタートする。
★ ★ ★
まずは一階から。現在受付になっている二間はかつての教室。
中庭を越えた先が応接間だ。
ここね。NGと記された史料以外は撮影OKだよ。
なお冊子の類はすべてレプリカ。現物は豊中キャンパスの適塾記念センターに保管されている。
緒方洪庵著『病学通論』(1849年)
オランダの医学書を翻訳した日本初の病理学専門書。意訳で原書に忠実ではないと、同時代の漢学者からうるさい指摘を受けたそうだが、医学生には判りやすいと大好評だったそうだ。的を射ているね。
客座敷
こんな感じね。二階の塾生大部屋を除けば一番広い造り。
前庭には燈籠とつくばい。
五姓田義松『緒方(夫人)八重肖像』(1901(明治34)年)
洪庵本人の肖像画もそうだが、明治初期の天才洋画家・五姓田義松(ごせだ・よしまつ)の作なんだよ。もちろん同時代人ではないから、過去の肖像画からの“描き起こし”らしいけれど。高橋由一と同門なんだ。
「鮭の?」
そうそう。
奥から見返した図。
ここは書斎だね。書院風だもの。洪庵自身が勉強した場所だろう。
正面には土間と井戸。
製薬の道具。薬研(やげん)。
ランビキ。オイルエッセンスの製造器。
台所。
階段で二階に通じているんだけど、これはお年寄りにはムリかも…。
「急勾配すぎゆ!」
しかも一段が高い!
よく(小柄だった)昔の人が、こんなサディスティックな階段昇ったよ💦。
(実際に断念した高齢の見学者がおられました…そりゃそうだよ)
ここはかつての女中部屋。
模型だとこんな感じね。
その先が《ヅーフ部屋》だ。
「なに?ズーフって」 想像つかん
阿蘭陀語辞書《Doeff-Halma》を閲覧できる部屋だったのでその名前があるみたいね。印刷ではなくて写本だったから部数も少なく超貴重だったそうだよ。
《GRAMMATICA OF NEDERDUITISCHE SPRAAKKUNST》(1842(天保13)年)
1822年間のオランダ語文法書第二版の復刻版。日本では「ガランマチカ」と呼ばれた。適塾での会読で使用されたことが『福翁自伝』に出てくるとか。これらは持ち出し厳禁だったから、皆奪い合うようにして勉学に勤しんだそうだ。小銭稼ぎに写本を売る怪しからん塾生もいたってよ。
「シンパシー感じゆー」
おサルって商魂逞しいよね
山脇東洋が表した『蔵志』(1759年)。官許の解剖書としては日本初。東洋は中国から伝わった五臓六腑説に納得がいかず、刑死者の遺骸を譲り受けて解剖を行った。しかし…幾ら学問的好奇心が豊かだとしても僕にはムリ。
杉田玄白訳『解体新書』(1774年)
解体新書は翻訳書であるうえに『蔵志』よりも刊行が15年も後なんだ。山脇東洋の偉大さが判るね。
塾生が寝泊まりした大部屋。割り当てはひとりにつき一畳。成績上位者から順に好きな場所を選べた。
塾生たちがつけた刀傷。幕藩改革に関わった橋本左内、明治維新を担った大村益次郎なども輩出したくらいだしね。血気盛んな若者がたくさん寝食を共にしたんだろう。
ちなみに1838年の開塾から閉塾までの24年間における入門生の数は記録に残るだけで636人。ざっと千人以上はいたと推測されている。大繁盛の名塾だったんだ。今なら●会とか●台とか?(最近の進学事情はよく判らん)
他には内務省初代衛生局長・長與専斎や、日本赤十字社初代総裁・佐野常民など、医学、衛生学の分野で功績を残した人物もごまんといる。なによりも特徴的なのは、全国各地から若者が集まったことだ。杉田玄白の天真楼、大槻玄沢の芝蘭堂など、江戸にも名に聞こえた蘭学塾があったのに、人気が高った。洪庵その人の人望と、八重夫人の支えがあったからだろう。
その専斎の自伝『松香私志』(1902年)。洪庵の最高の弟子で塾頭も務めたそうだ。
だが皮肉にも洪庵も病魔には勝てなかった。この長い巻き物は次男・平三(惟準)と三男・城次郎(惟孝)に宛てた書状で「おかみが西洋医学所頭取に招聘したいと打診してきた」と迷惑そうにしたためている。洪庵は出世よりも住み馴れた大坂で町医者を続けたかったし、元来頑健な方ではなく、長旅にも自信がなかったらしい。しかし、幕命には背けない。不承不承江戸に着任。そして、一年足らずで大量の喀血。享年54歳。早すぎる死だった。
しかし、遺志は家族が繋いでいく。早世した四人を除く九人の子供はひろく社会に貢献。孫婿の緒方正清はコッホに師事。緒方産婦人科医院の病院長を務め、秀才・伊東祐将を養子に招き、産婦人科の近代化に貢献する。
「ここから降りるのきゃ…」
降りる時の方がもっと怖いね…。
なかなか濃い内容だった。知っているようで知らないことばかりだった。
登録有形文化財に指定されると、解体修復工事も進み、隣接地には公園も整備された。
最後に洪庵先生に挨拶してあとにしよう。ちなみに適塾の塾生に手塚良仙がいる。そう。手塚治虫先生のひいお爺さんだ。もちろん手塚先生も阪大医学部。きちんと繋がっている。
知っているようで知らない日本の偉人。まだまだたくさんいるはずだ。少しずつ掘り起こしていきたい。
「腹へった~」 皆帰ったのにいつまでもいるのうちだけじゃん!
しかし、週末の北浜に昼食をとれる場所ってあったっけ?
(つづく)
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