「明治大学博物館」で刑罰と考古その他諸諸を見学する(東京都・御茶ノ水) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

明治大学博物館

℡)03-3296-4448

 

往訪日:2023年3月25日

所在地:東京都千代田区神田駿河台1-1 アカデミーコモンB1F

開館時間:10時~17時(土曜:~16時)(日曜祝日休館)

入場料:無料

アクセス:JR中央線・御茶ノ水駅から徒歩約5分

 

《これが本当のアイアンメイデン》

 

ひつぞうです。引っ越しを終えて大阪の生活が始まりました。ペースは依然掴めませんが、そのうち慣れるでしょう。ここしばらくはおサルが身の回りの世話を焼いてくれるそうです。

 

「報酬よろしくお頼む」サル

 

さて、三月最後の週末は都内の街歩きにあてました。訪れたのは明治大学博物館。明治法律学校を前身とする本学には、1929年に開設された刑事博物館の他に商品陳列館考古学陳列館がありました。2004(平成16)年にそれらが統合。現在の場所に移転したそうです。ここは博物学者の荒俣宏先生の熱の籠った紹介で知りました。特筆すべきは数々の処刑に纏わるコレクション。そして先日訪れた岩宿遺跡の発掘品。それに茶道具に登山。バラバラですが、そのどれもが一級品。以下、往訪記です。

 

★ ★ ★

 

この日は雨だった。それもかなり本格的な。それでも出かけることにした。実は一番の目的はランチ。想像を絶する人気店で、朝一番に整理券をゲットしないといけない。ところが、いろいろあって旨くいかなかった。とりあえず夕食にはありつける。気を取り直して御茶ノ水まで移動した。

 

(写真はネットより拝借しました。雨で撮影できなくて)

 

博物館はアカデミーコモンの地階にある。

 

 

博物館だけは部外者も入館可能。加えて(なんと!)無料なのだ。信じられない。さすが私学。

 

 

この突き当り左にエスカレーターがある。ちなみに国内の私立大学付属博物館としては最古らしい。

 

 

開館の10時前に到着。当然誰もいない。卒業生ではないのだが一応ね。会社の同僚にも明治OBはいるが一度も行ったことがないという。「そんなところに興味持つの●●さん(僕の本名)だけですよ」と云われた。そうかな。こんなコレクション滅多に見学できないのに。

 

 

それでは時間になったので入場。

 

 

折角なので大学史展示室も観てみた。

 

「卒業生じゃないのに?」サル 物好きだのー

 

 

旧明治大学記念館の模型(1928年竣工)。関東大震災復興後の三代目だ。ドームを中央に配したクラシカルな煉瓦式の洋風建築だったが、耐震構造上の観点から、惜しまれつつ1996年に解体された。重要文化財候補だったそうだね。現在はリバティタワーに姿を変えている。

 

 

創立者である矢代操岸本辰雄宮城浩蔵の三氏。皆、地方藩士の倅で、御維新の内戦を経験したのち、大学南校(のちの東京帝大法学部)や司法省明法寮で学び、留学して近代法学を日本の司法制度に取り入れた俊秀だ。明治大学のパイオニア精神と旧陋にとらわれない先進的学風は、ここに始まるのだろう。

 

「卒業生じゃないのに語るにゃ」サル くどいけど

 

では展示館に行こう!

 

=商品部門=

 

 

ここでは日本の伝統工芸が紹介される。

 

「しぶ!」サル

 

 

漆器、織物、金工、陶磁器など、日本の生活工芸品が中心。漆器って和食料理店以外で自宅使いするような機会は、考えてみればほとんどないね。

 

「バブルの頃に贈答品として流行ったかららしいにゃ」サル

 

どういうこと?

 

「それまで日用品だったのに高級品ってイメージが定着して…」サル

 

どの家もしまい込むようになった?

 

「正解!」サル

 

うちもそうじゃん。(今回の引っ越しで使わなくなった漆器・陶器は処分した)

 

 

萩焼 宝瓶 (1958年製)

 

萩焼の歴史は秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に、毛利輝元が連れ帰った陶工、李敬・李勺光兄弟に始まるそうだ。そもそもは、ざらりした土の触感と、無彩色釉薬の素朴さが特徴の雑器だった。

 

 

これは近年の作。同じ萩焼でもこれほどに違う。最近は絵付けや優美なシルエットの作品も多いそうだ。

 

「まだよく判らんみたいにゃ」サル 迂闊なこというと叩かれるにゃー

 

そうりゃそうだよ。焼き物一年生だし。

 

そして、春の特別公開が次の二点。

 

 

十二代長岡空郷作 出雲焼楽山窯《茶垸》 (2018年収蔵)

 

いずれも高麗茶碗だ。後学のために記しておくと、高麗茶碗とは必ずしも高麗王朝時代に制作されたものではない。室町時代の茶人が尊んだ李朝の生活雑器、(その結果として)日本から製造委託された陶器などを指す。現代の名工、長岡空郷(ながおか・くうきょう)氏の作品はその流れを汲んでいる。この荒々しい胎土の感触。勢いあるヘラ目。

 

 

同 出雲焼楽山窯《秋草の絵茶垸》 (2018年収蔵)

 

いびつな口べり。衒いのない素朴な絵つけ。

 

 

観る角度を変えるだけでまた違った表情が覗く。工芸品って面白い。

 

「全然わからなーい」サル お好きにどーぞ

 

=刑事部門=

 

 

いよいよメインイベント。

 

(説明にも記されているように)江戸時代には刑具・拷具は使用後に焼却処分されていた。なので(昭和4年の)博物館設立時ですら現物は入手困難だった。初代館長・大谷美隆氏は精巧なレプリカの制作を職人に委託したそうだ。ここに並ぶのはその一大コレクション。

 

 

時代劇でおなじみの捕物三つ道具。(鉤付きの)袖搦み、(U字の)刺俣、(T字の)突棒。刺俣は今でも駅構内の派出所などで現役だね。

 

「そういう酔っ払いがいるんだよ」サル

 

終電を逃して「野宿させろ」と駄々を捏ねたことあったなあ。

 

「ほんと困るにゃー」サル さっさとタクシーで帰ってこんかい

 

 

くれぐれも御用にならないように。

 

 

房付きの十手って、手柄のあった高位の与力・同心にしか与えられなかったそうだ。だからドラマで岡っ引が紫の房付き十手を持っているのは時代考証的に変なのよ。

 

「ホントに刀相手に戦えるのかにゃ?」サル

 

短棒術っていう護身術があるんだって。でも長尺の刀相手に戦えるイメージ湧かないね(笑)。

 

ここから刑具。(繊細な方は閲覧をお控えください)

 

 

拷問のひとつ《石抱き責め》

 

江戸時代。自白を取るためにお上はやりたい放題だった。「遠山の金さん」では奉行自らがお白洲で刑を言い渡すが、実際の審議は(『公事方御定書』にのっとり)専門の下役がすべて仕切ったそうだ。そして死罪の判決は、白洲ではなく牢屋で下役が告げたらしい。

 

「『市中引き回しのうえ磔獄門を申し渡す』っていうのは?」サル

 

ドラマの中だけの台詞なんだって。

 

 

『大岡政談天一坊実記』

 

有名な大岡裁きのエピソードは、殆どが講談などによる後年の作り話。この『実記』が事実を伝えている。左のページには「火付盗賊改 長谷川平蔵伺」とあるね。『鬼平犯科帳』で有名な“鬼の平蔵”だね。大岡越前守とは時代が重複しないはずだけど…。判らん。

 

 

惨たらしさの極み《鋸引き仕置》。箱に入れて突き出た首を鋸で挽くという残酷非道な極刑。怖すぎだよ。なぜこんなことをしたと思う?

 

「市民に愉しみがなかったから?」サル

 

それは古代ローマだよ。犯罪抑止と国家権力の威光を示すためだったそうだ。でも実際はあまり意味がなかった。

 

 

《獄門首台木》

 

獄門梟首とも呼ばれる。いわゆる斬首刑だ。その首は下から打たれた二本の五寸釘に刺され、二晩晒しものにされる。なんだかここまで書いただけで気持ち悪くなってきた…。

 

 

《磔柱》

 

後ろの絵が説明してくれているのでもういいね。

 

 

磔になった者の罪状は紙幟に記された。酒乱の旦那に手を焼いた妻と娘が共謀して、殺鼠剤を飯に混ぜて殺したらしい。今も昔も人間の業と云うのは変わらない。

 

 

火炙りの刑ですね。もうね。お腹いっぱいです…。

 

「怖いっちゅーの」サル

 

★ ★ ★

 

明治3(1870)年の『新律綱領』によって死刑は締・斬・梟示に、そして、明治12年の旧刑法施行に伴って、絞首刑に一本化された。つまりだ。驚くべきことに、梟首刑は明治の初めまで続いていたことになる。近代国家を目指す新政府の指導者たちが、さすがに野蛮すぎると理解し始めて、斬首を廃止した訳だが…。

 

 

代替案として最初は絞罪柱と呼ばれる刑具が使用された。上の輪に首を、足には巨大な分銅をかけて、足許の板を外す。受刑者の苦しみ方が半端ないので廃止された。蘇生するケースもあったとか。問題だらけの刑罰だった。

 

 

囚人の苦痛を緩和しようと、明治6(1873)年に『改訂律例』で階段つき絞首刑に改められた。いずれにせよ人が人を殺めるという死刑制度について、意見を圧しつけることなく、観る者に考えさせる展示だったね。

 

「これで終わり?」サル 観るだけで心底疲れた

 

いやいや。肝心なものがまだ。

 

 

これが鉄の処女だよ。Iron Maidenと書かれている。かつては拷問の道具と思われていたけれど、公序良俗に反した者を、閉じ込めて恥ずかしい思いをさせる恥辱刑に使われたと云われている。この存在を知った荒俣先生は、即座に明大に問い合わせたが、当時は見せてもらえなかった。

 

「中にトゲトゲがついてるけど」サル

 

 

釘は追加されたものらしい。ちなみに1932年製造のレプリカ。ローデンブルク中世犯罪博物館が現物だろうと言われている。

 

 

しかし、よくできているよ。

 

「表情におぞましさがないぶん安心して観られるかも」サル

 

これは?

 

 

明治大学創立50周年を記念する刑事展覧会用に作ったレプリカ(昭和6年)だ。斬首刑はかつて欧州でひろく行われた極刑だったが、イタリアの法律学者ベッカーリアが著書『犯罪と刑罰』で、その非人道性を強く訴えたことにより、刑法思想が大きく変わったそうだ。最後までフランスはギロチンだったけどね。

 

 

歴史の教科書でおなじみの法律の数々。

 

ということで法律と刑罰についてのコーナーは終わり。

 

=考古学部門=

 

この博物館の成り立ちを知らないと「なせ急に考古学?」と思うだろうね。

 

 

本学の考古学研究は岩宿遺跡と不可分だ。文学部に考古学専攻科ができたのが1950年。

 

 

岩宿遺跡A地点と掘るのは芹沢長介(東北大)と杉原荘介(明治大)の二氏だ。のちに“最初の発見者問題”で二人は袂を分かってしまう。不幸な出来事だった。

 

 

すべて重要文化財級。

 

 

一回触れているので参考まで。

 

杉原先生の大きな功績のひとつが偽石器問題だ。

 

 

青森県金木町のため池の底から大量に発見された石器。これを杉原はのちに自然の圧力で破砕したただの石だと結論づけた。その後、ゴッドハンドを名乗る人物による人為的な偽石器事件が世間を騒がせた。杉原先生は人間の思い込みについて、深い洞察を残したと言える。

 

 

黒曜石霧ヶ峰伝播説を解明したことも明大考古学チームの功績。

 

 

霧ヶ峰が古い火山であることを想像させてくれる。

 

 

杉田貝塚の剥離標本もすばらしい。大森貝塚公園ではもはや観ることはできない。

 

 

二枚貝のほか(まず現代人の食卓にはのぼらない)ツメタガイ(巻貝)も食べていた。

 

 

発掘の状況も知ることができる。古代のゴミ処分場だね。

 

 

縄文・弥生・古墳時代はこんな感じ。

 

 

銅鐸の形態進化。

 

 

九州のみに分布する大型銅戈

 

 

船塚古墳(茨城県)の形象埴輪(レプリカ)。

 

 

三昧塚古墳の甲冑

 

ということで気になる出土品を駆け足で。

 

★ ★ ★

 

もういいかなと思ったが、ちょうど植村直己さんの特別展が開催されていたので。

 

「山を語るならばマストなんじゃね」サル

 

 

明大OBの書物は幾つか読んできたが、かつての“しごきの明治”のエピソードを知る者としては特別な想いを抱いてしまう。

 

 

「大学生の面構えじゃないにゃ」サル

 

ベルトのバックルにMACと刻印されているよね。これが彼らの誇りだったんだよ。

 

 

道具も重そう…。

 

 

卒業後の植村さんは海外の高峰に挑むため、まずアメリカで出稼ぎ労働するんだよ。そしてフランスね。著書『青春を山に賭けて』は登山をしない人にも読んで欲しい名著だけど、その中でクリスマスなのにスキー小屋の仕事を続けてジャガイモの食事だけで孤独に過ごす植村青年に、フランス人の女性が誘いをかける場面があるけど、ここがたまらなくいいんだ。

 

 

植村さんって(突拍子もない譬えだけど)松本零士先生の漫画の主人公とダブるんだよね。孤独を飼い慣らすっていうの?陽の当たる場所が似合わないタイプだけど、荒ぶる魂を内に込めて、静かに“その時”が来るのを待つっていう。

 

 

豆タンクが綽名だった植村さんは体格のハンデなど感じさせないバイタリティで世界の高峰を次々に陥していく。

 

 

そして犬橇による極点到達。

 

 

デナリに消えたことは皆の知るところだけど、植村さんは既にデナリをものにしていた。遭難は南極制覇のための訓練山行で起きた。この写真の背後にそそり立つバットレスの異様な光景。まるで植村さんの未来を暗示するかのように不気味だ。

 

 

盛りだくさんの博物館だった。知らないことを知るって素晴らしい。

 

満足して御茶ノ水の学生街を後にした僕らだったが、ランチを逃している。どうしたものか。

 

「腹減ったよう」サル

 

(つづく)

 

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