名建築を歩く「旧白洲邸 武相荘」(東京都・町田市) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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名建築シリーズ8

旧白洲邸 武相荘

℡)042-735-5732

 

往訪日:2022年12月10日

所在地:東京都町田市能ヶ谷7-3-2

開館時間:月曜定休

(ミュージアム)10時~17時

(レストラン)

(L)11時~16時(D)18時~【予約制】

料金:一般1,100円

アクセス:小田急・鶴川駅から徒歩約15分

 

《ふたりの温もりがいまだ息づいていた》

 

ひつぞうです。週末は山間部の空模様もいまひとつ。ならばと街歩きに出ることにしました。訪れたのは町田市の武相荘(ぶあいそう)。2001年10月に白洲次郎・正子夫妻の旧邸を一般公開した記念館です。白洲次郎氏といえば、吉田茂の懐刀として戦後復興期の重要局面で活躍した実業家。かたや正子さんは、薩摩藩士でのちに海軍大将を務めた樺山資紀の孫で、骨董や古典芸能など、幅広い分野で筆を執った随筆家として知られます。その著書や伝記には親しみながら、武相荘の存在はドラマ『名建築で昼食を』で初めて知りました。以下、往訪記です。

 

★ ★ ★

 

田口トモロヲさんが好きである。『プロジェクトX』のナレーションよりも、カルト映画『鉄男』の演技に痺れたクチである。そのトモロヲさんが出演したドラマをおサルが紹介してくれた。仕事柄もあるが、僕の建築偏愛を知ってのことだろう。ヘップバーンの映画そのままのタイトルが鼻もちならなかったが、観てみると案外面白い。深夜枠のドラマだけに演出に無駄がなく、古いフランス映画のような語り口で、戦後の名建築を、とりわけ設計者に焦点を当てて紹介していく。工学的にも美学的にも、そして物語的にも面白い。一気に10話すべて観てしまった。

 

「“なにこれ”って最初軽くあしらったよにゃ」サル

 

その第八話に武相荘が登場する。

 

戦争が現実のものとなった東京での暮らしに見切りをつけて、幼い我が子を連れた白洲夫妻が郊外への疎開を真剣に考えていた頃の話だ。たまたま訪れた鶴川村の古い家屋に一目惚れした正子さんは『こういう家で暮らせたら』と漏らす。真に受けた案内人は、すぐさま家主の老夫婦に掛け合う。とんとん拍子で話は進み、少しずつ手を入れて、自分好みの家にしていった。

 

武州と相州に跨る旧鶴川村。そこに不愛想をかけて、次郎さんは武相荘と名づけた。絶え間なく訪れる来訪者に、その都度、屋号の由来を想像させて得意がる。そんな悪戯小僧の笑みが眼に浮かぶ。

 

★ ★ ★

 

一歩己の味に気を良くして、調子に乗ったのが運のつき。起こされなかったら、終日床に臥せた儘だった。横浜線・町田駅で小田急に乗り換えた。鶴川の駅は二つ隣りだった。多摩丘陵に広がる初見の住宅街。判るようで判らない。寝坊したので焦るばかり。

 

「セッカチすぎんじゃね!」サル寝坊したのは自分でしょーが

 

ごめん。そういう性分なんだよ。

 

できれば開館の10時に間に合わせたい。人混みは苦手なのだ。バス乗り場は駅北口から右手に50㍍ほど歩いた場所にあった。これで多少は短縮できる。わずか数分で最寄りの鶴川一丁目についた。緑地に沿って直進すると「武相荘」の看板が見えてきた。

 

 

無事たどりついた。なお、ここは駐車場。入口は反対になる。

 

 

この土塀の合間から竹林を抜けていく。

 

 

かつて村の子供たちが白洲邸から孟宗竹を伐りだして、どんど焼きを行うのが季節の慣わしだったと『鶴川日記』に出てくる。これがその竹林なのだろう。

 

 

先は窪地になっていて、水捌けの悪そうな地面が僅かに残っていた。珍しくもないとレンズを仕舞ったが、今思えば、かつて一面に広がっていた田園の名残りだったのかも知れない。

 

 

漆喰が眩しい三階建てが見えてきた。ショップ&ラウンジとなっている。

 

 

チケットは中のミュージアムで購入する。

 

 

立派な門構えだね。

 

 

おや。これは青年時代の次郎さんが、無免許で乗り回していたという伝説の名車《1916年型ペイジSix-38》の同型モデルはないの。当時の車は家一軒が買えるほどの値打ちだった。次郎さんの父・白洲文平氏は兵庫三田の貿易商だった。最後は息子のヤンチャに手を灼いて、このままではまずいとイギリスに放り込む。この時代の資産家の子弟によくあるケースだ。頭もいいけどワル。最近では使われないけれど《ちょいワル》の走りだったのだろう。

 

「ダンディだのー」サル

 

 

手前はレストラン&カフェで、奥の茅葺きが武相荘ミュージアム。つまり、白洲夫妻の終の棲家だ。

 

 

“戦争中はお客様が多かった。ふだん会わないような人たちも、なつかしがって訪ねてくれた。いつ死ぬか判らない、これが最後かも知れない、という気持ちをだれでも持っていた。”(『村の訪問客』より)

 

正子さんの随筆のいち部分である。鶴川村に越してきて、村の人びとや、都会からの訪問客、同じ疎開者との交歓が、抑制の効いた短文で、折り重ねられてゆく。

 

 

長い人生の一部分が「日々の生活」なのではなく、その日々の積み重ね、継ぎ接ぎの大計が「生活」つまり「人生」である。だから、一日一日を疎かにせず、大切に過ごす。建物を眺めながら二人の生活を想像すると、そういう(簡単だけれど)大切なことを気づかされる。

 

 

命の危うさに曝されることで、むしろ、心地よい諦観というのだろうか、清々しさといえば大袈裟だが、そういう穏やかな心持ちを抱きながら、次郎さんと正子さんは生活していたように思う。(長女の桂子さんによれば、決してそういうノーブルな側面ばかりではなかったそうだが…夢は見させて頂こう。)

 

建物の内部はすべて撮影禁止。巷に多少の画像は落ちているが掲載は遠慮しよう。料金を払って見学する。かつて馬小屋に繋がっていた土間と母屋を板張りで繋ぎ、手前は海外生活が長かったふたりらしく、応接室を兼ねた洋間になっている。手先が器用だった次郎さんは、工具を片手に家の改装に余念がなかった。

 

“家を買ったのは昭和十五年で移ったのは戦争が始まってすぐのことであった。それから三十年かけて少しずつ直し、今もまだ直し続けている。もともと住居とはそうしたものなので、これでいいと満足することはない。”(『縁あって』(思うこと)より)

 

 

次郎さんの遺品であるテトリー&バトラー製のニッカーボッカー。ダンヒルの皮財布。そして珍しく正子さんにプレゼントしたというエルメスのバッグ。仲睦まじく写真に収まった旅先信州での晩年のスナップ。つい先月のことであるかのように、写真は鮮やかで気取りがなかった。

 

そんな“無愛想”な次郎さんも、正子さんには一目惚れだったそうだ。

 

You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals.

 

これは正子さんに贈った手紙の一節。几帳面でやや傾いだ直線的な筆跡は、意思のひとであることを物語ると同時に、正子さんへの想いが真正直であることを感じさせる。

 

「なかなか書けんね」サルこっぱずかしくにゃい?

 

僕は滑稽なくらいに恥ずかしがり屋だから。

 

 

葬式無用

戒名不用

 

昭和五十五年五月 正子 泰正 兼正 桂子

 

これは家族に宛てた次郎さんの遺言書。英文の若き日のラブレターと同じ人物の筆跡とは思えない、太くて乱暴で頑な筆文字。現役時代は政務官として、また財界人として難題に立ち向かった次郎さんだが、武相荘では日曜大工に精を出し、ゴルフが好きで、洋酒好きで、車が好きな、ちょっとワルでお洒落なオヤジだった。だからだろう。1985年秋の急逝以来、10年サイクルで白洲ブームが再燃する。

 

 

散策の小径は今が盛りとばかりに燃え上っていた。

 

 

あまり褒めちぎると「お前はよく判っていない」という謗りを受けるので、生前の次郎さんが同性には多少煙たがられる存在だったことも併せて記しておこう。だから駄目ということではない。どんな人間でも癖はあるし、行動の人、多弁な人ほどとかく槍玉に揚げられる。

 

「ヒツもさあ。おサルがいないと駄目駄目だもんにゃ」サル老後ダイジョウブ?

 

僕は自立してますよ!

 

★ ★ ★

 

さて。正子さんについて。83歳で次郎さんが他界して、1998年に88歳の生涯を閉じるまで、13年間武相荘をひとり守った。その“一メートル四方の一間ほど突き出た板の間”“私の自由な天地”と表し、ラジオとランプを頼りにページを繰り、ペンを執った。あの白洲正子の優れて無駄のない、揺蕩うような文章が、この狭い空間でしたためられたのか。

 

壁を埋め尽くした書籍の、その茶色に焼けた背表紙をみる。歴史、芸能史、南方熊楠や折口信夫。正子さんらしい選書の他に、ひと回り以上も下の世代の、車谷長吉や養老孟司先生、まだ駆け出しだった福田和也先生の著書もあって、新しい書き手の登場に敏感だったことを窺わせた。書棚はその人となりを映す鏡。失礼ながら他所の本棚に興味を抱くタチである。

 

他にも、きもの、焼き物、民藝品など、正子さんが大切にしたものが展示されている。

 

“私は日常生活に使えるものしか買わないのである。”

 

至言だ。僕は日常生活に使えないものまで買ってしまうのである。

 

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屋外にも展示スペース。バー&ギャラリー“Play Fast”だ。

 

 

「お金持ちだったんだにゃ」サル

 

こんなバーコーナー、一般人には持てないね。

 

「うらまやしい」サル

 

 

さてそろそろ11時。名建築で昼食だ。ランチは予約なしで入ることができる。記帳式。

 

 

名物はカレーだ。

 

「おサルは海老!」サル

 

じゃ僕はチキンで。

 

 

せっかくなので白をグラスで。

 

 

次郎さんは野菜が全然駄目だった。だからこうしてカレーと一緒に食べさせたそうだ。なのでキャベツの千切りにはドレッシングが掛かっていない。

 

「すっごくスパイシー」サル♪んま

 

スパイスは当店仕込み。ナツメグ、コリアンダー、クローブの香り。他にもたくさん入っているね。

 

「タマネギの甘さは控えめだね」サル

 


サラリとした食感で、チキンと海老の香りがしっかりしている。時間をかけて丁寧にエキスを取っている。とても美味しかった。ドラマの影響だろうか、有閑マダムの姿が目立った。白洲夫婦に憧れたバブル恩恵組だろう。ミュージアムは付け足しでランチだけのお客も多かったな。

 

 

今の若い人たちは、どう感じるだろうか。身近に爺さんとオッサンしかいない僕には、そのあたりの事情が判らない。だから、ますます古典回帰な生活になりつつある。Hobby&Taste。二人の生き方を表した旨い言葉。長女で館長の牧山桂子さんの言葉だ。世代は更新されていく。だけど、ここ武相荘での二人の記憶は、イメージのフレームに嵌められて、変わらず継承されていくのだろう。

 

「ヒツのことはおサルが覚えてあげるだよ」サル任せとき!

 

やな予感…。

 

 

鶴川駅まで歩いて帰った。振り返ると、武相荘を囲む竹林の丘だけが、昭和の時代にタイムスリップしたように、ポツンと取り残されて、あたりの喧騒から隔絶されているような錯覚を感じさせる。谷あいが多いと正子さんが記したように、そこが多摩丘陵の一角であることを、今更にように思い出した。

 

駅には『鶴川日記』の記載と同じく15分で到着した。時計を見る。時刻はまだ午後12時を回ったばかり。幾らでも遊べる。何も考えずに出てきてしまった僕は、ふと、あることを思いつき、そのまま横浜に引き返すことにした。

 

「えー!家に帰るのちにゃー」サル遊ぶ遊ぶ遊ぶー!

 

子供かよ。

 

(つづく)

 

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