史跡「大森貝塚」二つの石碑の謎に迫ってみる(東京都) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

大森貝墟石碑

大森貝塚遺跡庭園

品川歴史館

 

往訪日:2022年3月13日

所在地:

(大森貝墟石碑)東京都大田区山王1丁目3

(貝塚遺跡庭園)東京都品川区大井6丁目21

(品川歴史館)東京都品川区大井6丁目11-1

見学時間:

(大森貝墟石碑)9時~17時

(貝塚遺跡庭園)自由

(品川歴史館)9時~17時

料金:(歴史館)一般100円

アクセス:JR大森駅北口から徒歩5分~10分

 

≪縄文人のグルメな暮らしが見えてくる≫

 

ひつぞうです。今回のコンセプトは“誰もが知っている教科書に載った歴史スポット”。目指したのは大森貝塚です。僕らの世代において、とりわけ先史時代から弥生時代にかけて名を馳せた歴史スポットといえば、岩宿遺跡登呂遺跡、そして大森貝塚です。ところが大人になって登呂遺跡を訪れてビックリ。遺跡とは名ばかりの寂れた公園。振り向く人もいません。なぜなのか。

 

考えてみれば簡単です。新たな発見により、歴史は日々塗り替えられるからです。新しい“スター”の誕生のたびに、かつての“大発見”は埃を被ってしまう。まるで人気商売のようですね。果たして大森貝塚はどうなっているのか。その往訪記です。

 

★ ★ ★

 

ランチを終えて、品川から大森に移動した。通勤の車窓から無感動に眺めるいつもの景色がそこにある。このどこに“偉大なる発見”の現場があるのか、見当すらつかなかった。初めて降りたつ大森界隈は、品川と僅かに離れただけなのに、庶民的な佇まいの街だった。JRの線路と並行する池上通りを北に200㍍ほど歩く。やがて石碑が見えてきた。

 

 

「これなのち?」サル

 

レプリカかな。

 

すぐ先にはNTTデータビルがあり、脇に《史跡大森貝塚》と小さく記されたゲートが設えてあった。なになに?開錠9時から17時まで?

 

 

なんと。夕暮れ時以降は見ることができないんだ。

 

「NTTビルの敷地だからじゃね?」サル

 

玉砂利の敷き詰められた小路を進むと…あった。

 

 

しかも思い切り線路わき。

 

考えてみれば動物学者エドワード・S・モースが1877年(明治10年)に大森貝塚を発見したのは、鉄道工事中の斜面だったというから当然といえば当然。しかし、ほぼ毎週眺めているのにまったく気づかなかった。

 

「そのあたりが偉大な学者と野良ヒツジの違いだにゃ」サル

 

 

さて。タイトルに掲げた“二つの石碑”の話である。

 

 

ここ大田区山王の石碑はモースの弟子、佐々木忠次郎博士が中心になって、1930年(昭和5年)に建てた《大森貝墟》の碑である。ところがその1年前。300㍍ほど東京寄りに《大森貝塚》の碑が大阪毎日新聞社長・本山彦一の尽力でひと足先に建立されていた。モースの調査から40年経過した時点で既に調査ポイントが誰にも判らなくなっていたのだ。

 

 

もうひとつの石碑があるという大森貝塚遺跡庭園に向かうことにした。“庭園”とは云うものの、ごく普通の児童公園である。五十過ぎのおっさんがカメラ片手にウキウキ顔で訪れる場所ではなかった。

 

「浮いてるよ。マジで」サル

 

 

貝塚をイメージしたのだろうか。気持ちの悪いオブジェが周囲を取り巻いている。そこに立派な頭のモース博士のブロンズ像が待っていた。見学可能な貝塚の露頭が数箇所あるように案内には記されているが、ほとんどが埋め戻されて一箇所だけ公開されていた。

 

 

「ふむふむ。いいもの食っているにゃ」サル

 

 

ところが実際はこの有り様。長い歳月、歴代の悪童たちが掘り尽くしたのに違いない。まあ、責める訳にはいかない。僕も子供の頃、近くの遺跡発掘現場に忍び込んでは勝手に土器の破片をほじっていたから。

 

「軽く犯罪入ってるにゃ」サル

 

五十年も昔のことだし、時効でしょ。

 

「良心は疼かないのち?」サル

 

塩を塗りこむね…。

 

まあいい。精巧な出土史料は品川歴史館で観ることができるし。

 

 

これがその問題の石碑。こうして二箇所の石碑が時を措かずして建てられたものだから、最初の発見がどこだったのか混乱に陥ったそうだ。同じ村の中だったら、そこまで面倒にならなかったのだろう。村境を挟んでの議論は、大井村(現品川)と新井宿村(現大森)の名誉争奪戦の様相を呈したのに違いない。結局はその後の調査で大井村のそれが最初の調査場所という見解に収まった。モース博士が大森停車場から現地まで通ったことで《大森貝塚》の名称が定着し、後日誤解が生じたのだろうと言われている。

 

ということで、石碑の背景は判ったが、肝心の貝塚を見なければ話しが終わらない。更に400㍍東京寄りに歩く。

 

 

品川区立品川歴史館に着いた。立派過ぎる。やはり東京にはカネがあるのだ。

 

 

品川が貝塚と東海道一番宿の街であることを物語っていた。

 

 

早速お出迎え。貝類の他に獣骨や土器の破片も混在している。三内丸山遺跡でもそうだった。

 

 

これが当時の地形図と《大森貝墟碑》(下)と《大森貝塚庭園》(上)の位置関係。間に黄色い村境があるのが判るね。

 

「台地の上だったんだにゃ」サル

 

そこがかつての海岸線だったから貝も魚も採れたんでしょうな。

 

 

品川宿の様子も精巧に再現されている。

 

(なんとなく不気味)

 

そもそもモース博士の来日の目的は腕足類の研究だった。

 

「なに?うであし類って」サル

 

ワンソク類だよ。三味線貝(シャミセンガイ)が現生生物の代表で日本に多く棲息したんだ。

 

「貝なのち?」サル

 

確かに二枚貝に似ているけれど、全く独立した古いタイプの生物なんだよ。江の島臨海実験所を設けて採集活動したことも有名な話。モース博士は進化論を最初に日本に紹介したことでも知られる。

 

 

貝塚発見と調査の結果は《Shell Mounds of Omori》と題して『東京大学理学部紀要』(1879年)に収められた。これが日本の考古学研究の基礎になったんだ。

 

そこ(貝塚発見)までだったら、御雇外国人博士のひとりで終わっていたかもしれない。

 

 

第一回(1877年):日光

第二回(1878年):北海道

第三回(1879年):瀬戸内・九州

第四回(1882年):京都

 

モースは日本の風土と暮らしに強く惹かれるようになり、全国を都合四回に分けて旅した。そして正確なスケッチをたくさん残した。いずれこれらの仕事も日本の民俗学へと結実していく。こよなく日本を愛し、日本の学問向上に助力を惜しまなかったモース博士。他の歴史スポットと同じく、思い切り“過去の大スター”に成りさがっていたが、モースを駆り立てた日本への情熱と功績を知ることができたのは大きな収穫だった。

 

 

品川歴史館の前身は実業家・安田善助の邸宅。戦後は電通社長の吉田秀雄記念館として利用されてきた。裏には庭園が開放されていた。もう桜の蕾が綻びかけているかもしれない。

 

=後記=

 

※昭和40~50年代にかけて、保護のために立入り制限したことが、逆に貝塚の荒廃を招いたと解説にありました。憂慮した地元有志の尽力で保存が進み、1984年(昭和59年)に新たな発掘調査が行われて、石鏃や貝製装飾品などが発見されました。その成果は歴史館で見学できます。

 

=おまけ=

 

(左より玄乃智(7号)・穂乃智(金沢)・恵乃智(蔵付)。酵母だけで全く味が違う)

 

横浜駅の傍で、鈴鹿の銘酒《作》三点唎酒セットが1200円(税別)で飲める。味を確かめる程度で満足し、この日は家路についた。

 

「美味かった!」サル

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。