旅の思い出「若山牧水記念館」(静岡県) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

沼津市若山牧水記念館

℡)055-962-0424

 

往訪日:2020年10月25日

所在地:静岡県沼津市千本郷林1907-11

開館時間:9時~17時(月曜定休)

料金:(一般)200円(小中学生)100円

アクセス:東名「沼津IC」より20分

駐車場:10台

 

≪牧水が終の棲家として選んだ千本松原の今≫

 

こんばんは。ひつぞうです。この週末は降雪への注意が必要になりましたね。久しぶりの出来事なのでちょっぴり不安です。ブログの方は修禅寺温泉旅の続篇です。

 

★ ★ ★

 

修善寺温泉の帰途、もう一箇所立ち寄りたい場所があった。沼津市にある若山牧水記念館である。以前手にした紀行文集『みなかみ紀行』を手掛かりに、いつしか僕は牧水の行跡を追うようになった。相変わらず散文しか理解する手掛かりはなかった。だが、そうでなければ、魅力に開眼することはなかったかもしれない。

 

 

修禅寺の丘の上の空はどこまでも遠く青かった。だがそれも、午後二時を回る頃になると瞬く間に陽は傾き始めて、風景は鼈甲色に染まる。秋が深まりつつあった。僕らは長岡温泉から江浦湾に抜けた。かつて多比の海として親しんだ漁港の町だった。思惑は外れて海岸通りの車の流れは緩慢になり、千本松原牧水記念館に着く頃には、景色はもはや暮色に呑み込まれる寸前だった。

 

 

牧水が終の棲家として選んだ沼津。多くの文人が、この地を訪れ、客人として、或いは間借人として暮らした。例えば、太宰治与謝野晶子、小説『氷壁』の井上靖、『野菊の墓』の伊藤左千夫など。そして、牧水もまた、富士が見える白砂青松に心を打たれて、この地で晩年を過ごした。亡くなったのちも、牧水の人柄を偲ぶ地域の人びとの尽力によって、1987年(昭和62年)に記念館が設立された。

 

「与謝野晶子と太宰はいっつもどっかに行ってるにゃ」サル

 

とりわけ与謝野先生は旅行好きだよね。あと温泉。絶対自分の足では歩かなかったけど(笑)。

 

 

コロナ禍の時代である。かならず往訪記録を書きましょう。

 

 

「ふむふむ。健康を害したのち?」サル

 

まずね、無茶苦茶貧乏だったんだ。歌人としては早くから名声を獲得して、全国に熱狂的崇拝者がいたんだけれど、創刊した文芸誌を維持するのに無理したんだよ。酒飲みで気紛れな性格だったのに、文学に関しては、もうね、半端ないくらい真面目だったんだ。

 

=生まれは九州の山あいの村=

 

 

すでに『みなかみ紀行』の稿で詳しく触れたので、その生涯については割愛するが、牧水の生まれた宮崎県東郷村(日向市と合併)の古い風景写真を見ると、仕事でたった独り、椎葉の山奥をレンタカーで走って廻った自分の若い頃を思い出した。決して標高は高くないが、何処までも山は蒼く、そして深かった。そんな土地柄が自然を愛して、旅を愛するひとりの歌人を生んだ。

 

 

医者の長男として期待されて育った牧水君、いや、繁(しげる)少年は旧制延岡中学を卒業後、早稲田大学に進学する。しかし、家族の期待も虚しく、俳句と短歌に目覚めてしまったせいで、ヤクザな商売と揶揄された新聞記者の道に進んだ。でもやっぱりしっくりこない。俺は歌がやりたいんだ。思い込んだら猪突猛進の牧水君は、文芸同人誌『創作』を立ち上げる。

 

=酒と女と旅の人生=

 

 

≪館内には牧水の書斎が再現され、愛用の筆や硯、番傘、袢纏が陳列されていた≫

 

そんな牧水青年もやはり人の子。一人前に恋をした。しかし、相手が人妻だったのが悪かった。その熱情と自然主義の影響を融合させて、独自の作風を打ち立ててゆく。恋と旅。日本人が好きなアイコンが二つ揃った。なにか連想させるものがある。そう。映画『男はつらいよ』のフウテンの寅さんである。ここに酒が加わると牧水先生が完成する。

 

1912年、塩尻出身の才女・太田喜志子と結婚し、家族を養うことになった牧水。どうしても都会での生活が馴染まず、静かに歌作に取り組める環境を得たい。牧水は一大決心する。一家をあげて沼津に引っ越すことにしたのだ。1920年(大正9年)8月15日。牧水の年譜で特筆すべき日となった。

 

 

牧水は三度の転居の末に千本松原に居を定めた。最初は沼津アルプスの拠点である香貫山の麓。地図を見ると判るように、当時は田圃しかなかったようだ。その後、関東大震災の煽りで地下が上昇し、国鉄沼津港線の沿線に越している。1974年(昭和49年)に廃線になった現在、蛇松緑道として整備されているあたりだ。

 

 

=みなかみ紀行=

 

この大遠征が企図されたのは転居二年後の秋。牧水の充実ぶりが判る。引っ越しは正解だった。

 

 

高崎から軽井沢小諸に入ったあたりまではいいが、草津花敷沢渡四万法師と、いったりきたりの旅程を見ると、同人指導というよりも、温泉に入りたい一心の旅であるのが判る。そして、飯屋や萬屋の戸を繰ってはカネを酒に替える。そんな日々を送った。日光に抜けて終えるこの旅は、面白いエピソードが満載。旅の名著としてお薦めである。

 

「おサルも温泉は好きだけどトホはイヤだにゃあ」サル

 

 

まだ借家暮らしだった牧水は真剣に自宅購入を考え始める。そして、思いついたのが、全国を股にかけた揮毫頒布会旅行だった。今なら差し詰めサイン会か。まさに我が身を切り売りするような過酷な旅だったのだ。

 

 

≪旅には喜志子夫人も同行した。かなり疲れている様子をカメラは捉えている≫

 

都合八年間、牧水の沼津時代は続いた。いや、わずか八年で終焉を迎えたというべきか。家族に安寧を齎したいという願いと、念願だった文芸誌の創刊。牧水の健康は次第に蝕まれていったが、本人は至って満足だったのかも知れない。

 

 

短歌雑誌の人気投票などというものがあったらしい。娯楽の少なかった時代だけに、歌作の人気はすごかったのだろう。白秋を差し置いて堂々の一位も一驚に値するが、あの茂吉先生がなんと八位という体たらく(失礼)のほうがもっと驚き…。

 

結局、牧水は肝硬変と胃腸炎を併発。1928年(昭和3年)の9月17日。還らぬ人となった。

 

 

牧水最後の手紙。自分が病人の癖に、病に伏せる後輩同人の高橋希人に充分養生するようにと、手紙で気遣っている。そして、自分も神経衰弱と胃腸病で生ものがまったく駄目になったから、果物と野菜と重湯と水とで養生していると述べている。なんかおかしくないか。たしかに適量ならば酒も良薬だが。

 

 

死を見据えた日常が記されていた。臨終の三日前には一切の食事を受けつけなくなり、時々で元気をつけたという。死の直前まで酒は受け入れた。なんか変。

 

 

一度は棺桶に入れられた愛用の酒器は、高温で一層の藍色を帯びて復活したという。牧水の魂がこもったのだろうか。棄てられることなく、展示品となって僕らを迎えてくれている。

 

当館には説明がなかったが、検視した医者は、真夏の暑い盛りにもかかわらず、腐臭のしない牧水の亡骸にあきれて「アルコール漬けで腐敗を免れているのでは」と訝しんだそうな。

 

「ヒツは饅頭とアイスクリームだにゃ。おサルはワイングラスだにゃ」サル

 

僕のお墓はえだまめの苗を植えてくれればいいよ(笑)。

 

 

≪川端康成による牧水の思い出をつづった原稿≫

 

牧水が『山櫻』の歌作に励んでいた湯ヶ島温泉・湯本館に同宿していた川端はこう書いている。「常盤樹の木立にまじる山桜のような美しさ、清らかさ、寂しさがある」と。

 

牧水は明るくて人に好かれて慕われた。愛する家族もいた。にも関わらず淋しさがあった。なるほど“美しい日本の私”ならではの評である。

 

=最後に=

 

 

実は牧水、代々日向の人という訳ではなかった。爺さんは埼玉県の出身。緑なすヒムカの山里に恋焦がれて移住したのである。そして、その医業を継いだ父もまた、腕はよくとも、酒に眼のない人物だった。牧水の漂泊と酒の人生はDNAのなせる業だったのだ。

 

 

幾山河 こえさりゆかば 寂しさの はてなむ國ぞ けふも旅ゆく  牧水

 

人生はゴールのない旅。所詮、水先案内のない旅。そんな旅の孤独は、決して嫌ではない。

 

少し離れた千本松原に足を伸ばしてみた。

 

 

間もなく太陽は夕凪の海、海原の果てへと沈もうとしていた。

 

 

多くの人びとが想いに耽りながら、あるいは、愛犬と戯れつつ、夕闇が訪れるまでの憩いのひと時を愉しんでいるように思えた。

 

(おわり)

 

いつもご訪問ありがとうございます。