旅の想い出「三島由紀夫文学館」(山梨県) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

「三島由紀夫文学館」

 

往訪日:2017年2月18日

所在地:山梨県南都留郡山中湖村平野506-296

開館時間:10時~16時30分(月曜休館)

入館料:(一般)500円

■駐車場:あり

 

≪冬枯れの景色に沈む記念館≫

 

こんばんは。ひつぞうです。結局こうなりましたね。予定していた旅行は自粛して中止。天気も悪いし、日頃できないことをやるには好い機会と前向きに捉えましょう。ということでブログ更新を逸してしまった想い出の場所について、エッセイ風に記してみます。

 

興味のない方はスルーしてね。長いよ。ヒマだったし。

 

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(画像は一部ネットより拝借しました。)

 

三年前の今頃、山中湖畔の三島由紀夫文学館を訪れた。沼津港深海水族館を訪ねた帰り道だった。今年は没後五十周年。犯罪者として断罪された三島も、世界文学の旗手としての“本来”の姿をそろそろ再評価される節目ではないだろうか。

 

と思ってみても、東大全共闘ティーチ・インの実録映画が封切られるなど、やはり世間一般における消費財としての三島由紀夫は、いつまでも事件の延長上で語られる存在なのかも知れない。

 

三島の文学館が山梨にあることを知ったとき、少なからず驚きを禁じ得なかった。それも全国唯一の文学館が。東京出身の三島には“故郷”、という言い方がおかしければ“ゆかりの地”がない。映画化された『潮騒』や代表作『金閣寺』など作品の舞台となった場所はある。

 

だが、いずれも古典の翻案あるいは事件からの借り物であり、三島文学のルーツと呼ぶにはあまりに紐帯が薄い。まず第一に甲府は三島が毛嫌いした太宰のゆかりの地でもある。

 

 

その建物は冬枯れたカラマツの疎林の中にひっそりと建っていた。閉館間近な時間だったが、それ以上に、一般の参観意欲を誘うには、三島という人物は(殊、文学を主題にしたとき)敷居の高い存在なのかも知れない。

 

「むつかしいだよ。おサルには。テキトーに流しゅ」サル

 

死の八日前に東武百貨店で始まった「三島由紀夫展」において、三島は自らの人生を「文学の河」「演劇の河」「行動の河」「肉体の河」に腑分けした。「行動」とは(粗削りに云えば)小論『文化防衛論』で語った、伝統文化の象徴たる天皇を護るための武士としての防衛行為である。三島は「軍人」ではなく、「武士」という言葉が好きだった。政治集団の一分子ではなく、飽くまで、伝統文化を護り、そして散りゆく者としての武士が。

 

(ジムワークはもともと努力家で研鑽好きだった三島にピッタリだった)

 

もし、ボディビルによる“人工的な”肉体という偶然の拾い物がなければ、作家としての一生を安楽に畢えたのかもしれない。

 

(学習院時代の三島。歌舞伎の女形のように華奢だね)

 

孫を溺愛する祖母と家中で遊ぶことだけを日課としていた幼少期の三島は、学業文才においては早熟な才能を開花させたが、青瓢箪な文弱の輩として、同級生にからかわれた事だろう。昭和の年号と年齢を同じくする氏の思春期は、軍国主義に傾斜した時代と重なる。頭脳明晰で感受性豊かであれば、益荒男ぶりが尊ばれる世情において無益に映る文弱な己に、自責自虐の念を禁じえなかったのではないか。

 

 

三島は男色だったと言われる。出世作『仮面の告白』の物語を自伝と読めば、そう取れるかも知れない。しかし、僕は違う解釈をしている。禁色こそは自らを否定せずに逃げ込ませるカムフラージュだった。そうすることで、努力では克服できない脆性(小説では吃音に象徴させている)を、心理的に乗り越えようとしたのではないかと。つまり、『仮面の告白』の物語は、作家による巧妙な仕掛けを施されたものだったと。

 

(大蔵省を辞して『仮面の告白』を執筆していた頃。無類の猫好きとして知られる)

 

枷が大きければ大きいほど、筆致とレトリックが研磨され、一流の作家として成長することを期待された。ところが、三十歳でボディビルに出逢い、肉体改造は誰にでも可能だと知ってしまう。

 

(最晩年の三島。この頃は既に自決を覚悟していたはずだ)

 

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話を戻そう。武士としての可能性を知った三島は、のちにおもちゃの兵隊と揶揄われた自警組織「楯の会」を結成。富士山麓の自衛隊富士学校に定期的に体験入隊するようになる。この機縁から山中湖畔に文学館が設立されたのだと(僕の質問に)その時の学芸員は答えた。しかし変だ。富士学校は静岡県に位置する。

 

 

そもそも三島記念館は「山中湖文学の森」の一部。徳富蘇峰館とともにそれを構成する。因みに蘇峰は別荘「双宜荘」を構えたことでこの地と縁がある。

 

今改めて館のHPを閲覧すると「幾つかの作品に山中湖が出てくることを機縁として…」らしきことが書いてあった。とって付けたような説明だ。結論からいえば地域振興的な箱物建設計画がまずあって、文学のビッグネームを誘致したというのが真相だろう。

 

 

作家としての威光を保つために、瑤子夫人は著作権や遺品の管理に尽力した。なによりも公的機関による管理を切望した。両者の思いが一致し、ここ山中湖畔に記念館が完成した。1999年7月のことである。まだ歴史の浅い文学館なのだった。

 

 

原稿や初版本の陳列に加えて愛用品も展示され、書斎の一部も再現されている(但し全て撮影禁止)。創作ノートや直筆原稿など、一部の貴重資料も閲覧可能だが、10日前までの事前申請が必要

 

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『金閣寺』『近代能楽集』など、三十五歳くらいまでに主な文学的業績を果たしてしまった三島は、長編『鏡子の家』での失敗、モデル小説『宴のあと』のプライバシー訴訟などで長編小説執筆の意欲を失っていったのかも知れない。それに反比例するように肉体改造の悦びに耽るようになっていった。

 

 

写真家・細江英公氏の作品集『薔薇刑』のモデルとなった三島は、自らの肉体を喜んで曝している。とりわけお気に入りの「聖セバスティアンの磔刑図」などは、もはや芸術ではなくて、僕には悪趣味の域。それと同時に切腹の美学への助走が始まる。

 

三島は生涯に四回切腹した。その最初が短編小説『憂国』(1961年(昭和36年))。二.二六事件に取材した作品で叛乱軍に参加し損ねた青年将校が、義勇の仲間を処罰する役目を命ぜられ、妻と共に自決するという物語である。

 

いかにも三島らしい筋立てであるが、評論でみせるような、いつもの理論先行の筆運びは皆無で、執拗に切腹の描写、皮下の脂で刃が滑り、肉が断てず、吐瀉物のように腹から腸が飛び出す様など露悪的な表現がこれでもかと続く。

 

「ごはんが食べられなくなった…」サル

 

(映画「憂国」の一場面)

 

その四年後には監督・主演のモノクロ映画も制作された。これが二度目の切腹。

 

 

三番目は勝新太郎、石原裕次郎主演の大映映画「人斬り」(1969年)の田中新兵衛役。凄まじい大根役者ぶりを発揮しているが、切腹シーンは(さすがに既にやっているだけあって)堂に入っていて迫力がある。因みに映画出演は初めてではない。

 

(笑撃のラストシーン。あまりに下手すぎる…。先生それはないですよ)

 

大映映画「からっ風野郎」(1960年)ではヤクザ役で初主演した。もう、ヤクザをやりたくて仕方がなかった三島の浮かれぶりがイヤでも伝わってくる。監督は名匠・増村保造。脚本は黒沢映画の常連・菊島隆三。そんな布陣にありながら、もうね、観てらんないくらい下手なんだよね。

 

もともと運動神経のない三島の格闘シーンは型通り過ぎてぎこちない。ボディビルで鍛えた筈の身体も所詮実践では役に立たなかった。そして有名なラストシーン。刺客に刺された主人公は「ちくしょう…。やられちまったぜ」とくさいセリフとともにデパートのエスカレーターを転げ落ちて絶命する。しかし受け身ができない三島は、後頭部をシコタマぶつけて気絶してしまうという大変なオチまでつけてしまった。

 

「いうにゃ。ひつ」サル

 

尊敬するあまり、つい(笑)。

 

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話を戻そう。

 

これらを追っていくと天皇制護持や七生報國は後づけの思想で、とにかく切腹がしたくてしたくて仕方がないという、子供じみた欲求しか感じられない。こういうことを書くと「読込み不足な、あまりに短絡的発想」という謗りを必ず受ける。果たしてそうだろうか。

 

勿論、三島文学を近代日本文学の最高の成果だと信じて疑わない。『仮面の告白』など何度読んだか知れない。だがエッセイ集『太陽と鉄』あたりまでくると、肉体を手に入れて欣喜雀躍の三島を見てしまう。もう文学はレゾンデートルではないもんねと嘯くその姿を。しかし三島はこうも考えたのではないか。古典から連綿と続く自分の文学は、文弱の自分が成し得たものであり、それもまた自分であると。

 

太陽と鉄の化身となれた(と錯覚した)三島は詩と肉体という二元論を拵えつつも、次第に肥大してゆく肉体のこだわりによって、現れつつあるその衰えに逆に嘆息しただろう。いずれ死すべきものならば、様式美を極め尽くして、呪縛され続けた討死の美学と心中しよう。

 

それがあの1970年11月25日の決起だった。クーデタの失敗を前提とした…

 

「本末転倒だにゃ」サル

 

文学的に枯渇したという説もある。それはある意味正しい。三島は元来長編小説の書き手ではない。例えば短編『百万円煎餅』『橋づくし』のような作品にその天稟を見出すことができる。三島がコント作家だと言われるのはもっともだ。長編作家にはまずもって物語の紬手としての想像力が不可欠だが、三島は事件から取材することが多かった。畢生の大作『豊饒の海』四部作は、前半生の代表作ほど読まれていない気がする。

 

 

そんなことを考えつつ、三島を連れて去っていったアポロン像を暫く眺めていた。

 

 

寒い日の午後だった。この年は例年どおり、湖畔の林床にも根雪があった。もう遠い昔のようだ。

 

(おわり)

 

※文中、大作家・三島由紀夫を「三島」と呼び捨てで記したのは、犯罪者として表現している訳ではありません。「三島さん」と呼ぶには僕ら世代は遅れてきた人間であり、「三島先生」と呼ぶには距離感が近すぎる。あくまで歴史上の人物として表現しました。

 

いくら暇とはいえ、書きすぎた。