ヒツジの映画鑑賞「真昼の暗黒」(1956年) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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「真昼の暗黒」

(1956年/日本・現代ぷろだくしょん)

 

監督:今井正

脚本:橋本忍

製作:山田典吾

原作:正木ひろし

音楽:伊福部昭

出演:草薙幸二郎、左幸子、飯田蝶子、松山照夫、北林谷栄、加藤嘉、山村聡、殿山泰司ほか

 

ネタバレあり(画像はネットからお借りしました。お許し下さい)

 

こんばんは。インドア一色のひつぞうです。今夜の映画は重いよ。

※興味のない方はスルーしてください。

 

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取りあげるのは社会派の巨匠・今井正監督の問題作。戦後の冤罪事件「八海(やかい)事件」を追ったドキュメント『裁判官』を映画化したものだ。今井正と言えばガラス越しのキスで有名な「また逢う日まで」や青春映画の名作「青い山脈」など“ヒット作”が思い起こされる。テーマ性の強い硬派な作品が本領にも関わらず、退屈しないストーリー性溢れる演出も特筆されるべきだろう。

 

 

今井正(1912-1991)。東京都出身。東大文学部中退。学生時代にマルクス主義に傾倒した今井は、主に独立プロの制作で社会派の秀作を残した。旧日本軍の暴走が招いた悲劇「ひめゆりの塔」。草創期の高崎市民オーケストラに材を得た「ここに泉あり」。戦後の農村社会の疲弊を描いた「米」。混血児問題をあつかった「キクとイサム」。老人問題をコミカルに描いた「喜劇 にっぽんのお婆ちゃん」。いずれも忘れられない名作ばかりである。

 

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戦後の地方都市で発生した老夫婦殺害事件の現場から物語は始まる。残された物証から複数犯と警察は断定。犯人の若い男・小島(松山照夫)に情状酌量をちらつかせ、仲間四人を共犯としてでっちあげる。飯場で真面目に働く彼らには前科があった。生きるための闇行為や偸盗が行われた時代。彼らがもって生まれた罪ではない。時代がそうさせたのだ。

 

(思惑どおりの供述を始める犯人を前に皆川刑事(織田政男)は満足そうな笑みを浮かべる)

織田もまた数々の名画の脇役として登場する個性派。本作で新人デビューした松山照夫のぎこちない演技も、仲間を裏切る姑息で卑屈な犯人像に見事嵌まった。

 

「全部吐いておしまいよ。栗ようかん夜中に盗み食いしたって。ヒツヒツよサル

 

身に覚えがありませんね。

 

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ではなぜ警察のかくも強引で暴力的、専制的な捜査が許されたのか。それも時代がそうさせたと云えばそうなる。終戦直後の治安維持は至上命題。映画「仁義なき戦い」が描いたように、秩序紊乱の取り締まりには、採用する警察官の人品経歴を問う余裕すらなく、日々発生する事件は“手際よく”片づけねばならなかった。だからと言って、決して許される行為ではない。

 

小島の供述によって主犯に仕立てられた植村(草薙幸二郎)は新妻のカネ子(左幸子)と一緒にいる所を逮捕される。そこから刑事たちのすさまじい拷問が始まる。殴る。蹴る。煙草の火を押しつけ、投げ倒し、耳が潰れるほどの大声でがなり立てる。

 

無実の植村の耳に「やったのはお・ま・えだ!」と大声でがなりたてる亀山刑事(陶隆司)。

(時代劇の悪役の常連としてお馴染み。こうしたアクの強い個性派もだんだん少なくなった)

 

「盗み食いばっかりして。ヒツヒツおまえもワルよのう」サル

 

冤罪とは如何にして生み出されるか。この映画を観れば判るような気がする。全ては密室で行われ、いつ終わりが来るとも知れない暴虐が降りかかる。被疑者は次第に意識が薄れ、ただ目の前の暴力から逃れたいばかりに嘘の自白を行うのである。

 

「俺はやっていない!」

 

植村の涙を滲ませながらの無言の慟哭を、僕らは直視できないだろう。

 

植村の新妻役の左幸子

(やや過剰ではあるが、舞台風のすばらしい演技。僕と同年代だった娘の羽仁未央と眉の形がよく似ている。その羽仁も今は亡い。若い頃はいけ好かないやつだと嫉妬に駆られたものだが、いなくなればなったで淋しい。)

 

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事件は裁判で争われることになる。冤罪事件を数多く担当してきた近藤弁護士(内藤武敏)にかける家族の期待は大きかった。

 

(内藤の演技は「スミス都へ行く」のJ・スチュワートの誠実な役柄を髣髴させる)

 

近藤は手始めに被疑者のアリバイ立証から着手する。だが、家族の証言では信憑性がない。被疑者宅にときおり立ち寄る独身巡査が頼りだった。巡査に淡い恋情を抱く長屋の寡婦を『大誘拐』では気魄の老婆役だった北林谷栄が演じる。これが艶あって旨い。この頃の民藝の役者は本当に旨い。そして権力に逆らえない気弱な巡査に「人でなし!それでも人間か!」と吐き捨てるシーンは忘れることができない名場面である。

 

(優しい顔をして実はすごくエゴイスティックな官憲役の加藤嘉)

 

この場面で鍵となる演技がもうひとつ。晩年は本当にボケてるんじゃと疑わせた加藤嘉が鬼の大島司法主任を演じるのだが、巡査がアリバイ立証に転びそうなった時にキッと見せる焦りと怒りの形相がすごいのだ。

 

(晩年はこんな笑顔でなごませてくれた)

 

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共謀による犯行が時系列的に成り立たないという状況証拠で争うことに内藤弁護士は方針を変える。

 

(原作者・正木ひろしは多くの冤罪事件を担当した辣腕弁護士だった)

 

最後に滔々と供述調書の矛盾と証拠の立証性の乏しさを語る場面は推理小説のような面白さがある。二審における判決当日。家族は無罪が確定したものと信じ、息子を迎える準備をして裁判所に向かう。だが、降された判決は全員有罪とするものだった。

 

 

最後の面会の場面。現れた植村の母親(飯田蝶子)は一言も発せず、振り切るように面会室から走り出していく。

 

 

金網に縋りつくように植村は叫んだ。

 

「おっかさん!まだ最高裁があるんだ!」

 

★ ★ ★

 

この映画が製作された時点で裁判は係争中だった。

 

現実の八海事件は最高裁では「事実誤認」で差戻し。広島高裁での差戻審議では全員無罪になりながら、検察の上告により最高裁で破棄差戻し。三度目の広島高裁で再び主犯死刑、ほか三名懲役15年。そして1968年の最高裁で真犯人の単独犯が認められて全員無罪が確定した。この間17年の歳月が流れている。

 

人間が人間を裁く行為において、現代でも冤罪はあり得る。事件で係累を失った親族の向けようのない怒りは理解できるが、この世に「絶対」がない限り、人の命を奪う死刑制度はあってはならない。そう思うひとりである。

 

=ヒツジの独り言=

 

タイトルは粛清が横行したスターリン体制の非情を暴いたケストラーの小説“Darkness at Noon”の援用。ほんとラストは救いのない真っ暗さ。劇団民藝の俳優が多数出演している背景には五社協定があるものと推測されるが、これほどバイプレイヤーの名優が揃った映画も珍しい。元祖お婆さん女優の飯田蝶子。ラストの眉根とへの字に結んだ口許だけで訴えた母親の哀しみ。

 

骨太な脚本は黒沢明野村芳太郎小林正樹岡本喜八とのタッグが多い橋本忍。ドラマ性のある展開、人間の業、原罪を抉らせれば右に出る者のないライターである。一流の俳優・脚本家・カメラマン・作曲家に支えられた傑作であるが、監督の視線の先にあるのは市民、民衆であることを忘れてはならない。

 

「いつもカタいにゃ~。ヒツヒツの観る映画は!」サル

 

(おわり)

 

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