特別展「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」
往訪日:2019年7月15日
会場:国立新美術館(六本木)
会期:2019年4月24日~2019年8月5日(火曜休館)/10時~20時
≪また観ちゃった…≫
いつものアート系備忘録です。興味のない方はスルーしてください
(一部を除き画像はネットより拝借致しました)
こんばんは。ひつぞうです。三連休最終日。やっぱり雨なので街歩きに出ました。
まずは国立新美術館で開催中の美術展へ。気がつけばもう会期末。この美術
館は開館が遅いのでと油断していたら、あっという間に十時近くになってしまっ
た。50人くらいの行列だったが、既に入場制限をかけながら案内中。説明プレ
ートが少ないのでイヤホンガイドは必須だ。
タイトルだけで「クリムトとシーレの回顧展か」と思ってはいけない。現在大改
装中のウィーン・ミュージアム(旧称ウィーン国立博物館)の日本出張と思え
ば判りやすい。
なので展示内容はこのようになっていた。
第一章:啓蒙主義時代のウィーン
第二章:ビーダーマイアー時代のウィーン
第三章:リング通りとウィーン
第四章:1900年 世紀末のシーン
つまり、クリムト、シーレの作品は最終章でようやく観ることになる。ご存知のよう
に東京新美術館は展示面積が広い。じっくり鑑賞すると二時間は普通にかかる。
歴史に興味のない人は、この際貧乏性はかなぐり捨てて、スルーした方がいい。
体力が持たない。
とは云いつつ、ざっとおさらいだけしようね。
「するんかい!やっぱり」![]()
★ ★ ★
第一章:啓蒙主義時代のウィーン
十八世紀のオーストリアはハプスブルク家の時代。女帝マリア・テレジアの息子
ヨーゼフ二世は熱心な啓蒙主義者で、社会改革に取り組んで、自由でのびやか
な思想を取り入れたんだ。
マルティン・ファン・メイテンス「マリア・テレジア」(1744年)
上の小額の中の幼いヨーゼフ二世の肖像画が何とも愛らしい。女帝としての貫
禄充分なマリア・テレジアだが、若い頃は素晴らしい美貌だった。
アンドレアス・メラー「マリア・テレジア」(1727年)
ウィーン美術史美術館 ※参考資料
こんなですからね。その息子ヨーゼフ二世は急進的な文化・社会制度改革に
着手するが当時も今も評価は今一つ。ただ、イタリア主導だった音楽界にあっ
てモーツァルトの支援者だったことは意義深いと思う。
ま、これら王家に因む様々な調度品などが展示してあった。
「手抜きだにゃ」![]()
第二章:ビーダーマイアー時代のウィーン
ナポレオン戦争が終結した1814年。その後の欧州の政治版図を決するウィーン
会議が行われる。名作映画「会議は踊る」のタイトルにもなった有名な会議だね。
その王政復古への反動として1848年革命が起きるのだけど、それまでの“平和”
な時代をビーダーマイアー時代と云うんだ。
「ビー玉?」![]()
違うよ!当時流行った風刺小説の小市民的主人公の名前からきてるんだよ。
とにかくね。市民が革命や叛乱を起こさないように検閲が厳しくなり、みんな厭
になるんだ。それで「家ん中に愉しみ見つけるもんね」ってな具合に生活スタイ
ルがが内向きになった。おかげで洗練された家具調度や音楽が生まれていっ
たんだ。一躍音楽会のスターになったシューベルトはまさに時代の寵児。
ウィルヘルム・アウグスト・リーダー
「作曲家フランツ・シューベルト」(1875年頃)
ま、これら市民生活に因む様々な調度品などが展示してあった。
第三章:リング通りとウィーン
マリア・テレジアからくだること四代目、最後の皇帝とも呼ばれるフランツ・ヨ
ーゼフ一世の時代に旧市街を取り巻く城壁が撤去される。その跡地にできた
のがリングシュトラーセ(リング通り)。これで一気に欧州随一の大都市に変
貌していく。
(城壁取り壊しと環状道路建設の様子)
(画像はネットより拝借致しました)
皇帝と帝都ウィーンにとって、一番の晴れの舞台は、美貌の妃エリーザベトとの
との婚礼(1854年)と銀婚式(1879年)。
とりわけ壮麗な銀婚式パレードで一役買ったのが「画家の王」とも呼ばれたオー
ストリア画壇の重鎮ハンス・マカルト。彼はパレードの総合プロデューサーとして
取り仕切った。
「銀婚式祝祭パレードのためのデザイン画」(1879年)
ハンス・マカルト「メッサリナ」(1878年)
実在の女優をモデルに制作された。そのせいか、顔は精緻だが衣裳背景はと
てもタッチが粗い。バロック期以降、美術アカデミーで称揚された画法がそのま
ま踏襲されている。ま、豪華だが、僕には面白みに欠ける作品だ。
美術アカデミーでの成功によって富と名声を収めたマカルトは、画家としてのみ
ならず、社交界の中心人物として一時代を築いた。だが、絢爛すぎる画風は次
第に下品なものとして評価はさがり、今では一般にはなじみのない画家となっ
てしまった。
だが、このマカルトの水脈下に我らがクリムトがいるのである。
「話がムツカシイだよ」![]()
第四章:1900年 世紀末のシーン
時代は世紀末に向かっていく。帝国内部の独立の機運は高まり、国民の人気と
は裏腹に皇帝の政治は混迷の一途をたどる。そんな中開催されたウィーン万博
(1873年)は明るい話題となった。
(ウィーン万博/プラター公園内に建設されたメインパビリオン)
(画像はネットより拝借致しました)
この万博に発足したばかりの日本政府が公式初参加した。帝都にたちまち沸き
起こるジャポニスム。これに反応したのが分離派のクリムトたちだ。下の作品は
分離派会館の開館に合わせて制作された。
グスタフ・クリムト「パラス・アテナ」(1898年)
芸術と戦いを司るギリシャ神話の女神アテナは、胸元にメデューザのレリーフ
が入った鎧をつけ、右手には「裸の真実」の化身を持つ。既存芸術に闘いを挑
むクリムトの意気込みと、どこか揶揄うような高踏的な姿勢が伝わってくる。
今回の目玉作品。
油彩は残念ながら少なくて素描が中心。というのもウィーン・ミュージアムは
クリムトの素描コレクションでは最大規模を誇るからだ。
(クリムト「習作」の一枚)
展示された作品と全く同じものをここに紹介することはできないけれど、まあ、
こういう感じの裸婦のスケッチが大半。それらは油彩のための習作なのだが
一気にモチーフを捉える線の力強さはさすがは職人のクリムト。
これ以上に煽情的かつ大胆な描写もあって(ちょっとここには掲載できないが)
例えば名作「ダナエ」も、こうした描かれることのない“全体”のスケッチによっ
て可能になるのだろう。
グスタフ・クリムト「ダナエ」(1907-1908年) ヴュルトレ画廊
参考資料
ちょっとエッチだったね。
「そういう眼で見るからなんじゃね」![]()
その他分離派のカール・モル、マッチュ、ルス、ベームなど同志の作品もあった
が、細かく紹介する紙幅がない。一つだけ言える。分離派とは決してひとつの
方法論ではなく、既存芸術を打ち破ろうという新思潮の許に集まった集団だった
と。なので、今となってはフランス印象派や表現主義の亜流と区別をつけにくい
感がある。
マクシミリアン・クルツヴァイル「黄色いドレスの女性」(部分)(1899年)
★ ★ ★
最後にもう一人の主役。エゴン・シーレについて。
エゴン・シーレ「自画像」(1911年)
シーレはクリムトの次の世代。戦闘的な芸術活動と奔放な私生活のクリムトと較
べて、ナイーブで芸術志向なシーレ。ベタ塗りなタッチと粘着的に歪んだ描線は
他の画家にはないものだ。だが、見ていて不安と嫌悪を催させる不協和音がシ
ーレの絵にはある。大胆な性描写という点で志向を同じくしても、シーレの絵は
官能と呼ぶよりも頽廃の気分が色濃い。
残念ながら、シーレも数点の油彩と、幾分数が多い素描が中心だった。クリムト
とシーレだけに期待を寄せると肩透かしを食らうかもしれないね(笑)。
そして、最近お馴染みの写真コーナー
グスタフ・クリムト「エミリエ・フレーゲの肖像」 1902年
なんと!この大作が写真撮影OKだとは!
第18回分離派展で展示された、クリムトが自然主義を離脱して、象徴主義的な
作風に転じた記念碑的作品だ。生涯独身だったクリムトが、一番信頼を寄せた
のがこのエミーリエだった。しかし、本人はこの出来に不服だったそうだ。恐ら
くもう少し明るくて、クリムトらしい女性の健康的エロティシズムを表に出したタ
ッチを期待したのだろう。
でもなあ。好きな女性を描こうとすると、画家は完成度を求めるあまり、描き込
み過ぎたり、別の技巧に走ったりするもの。衣服や背景の意匠性を高めること
が奥行と幻妖な雰囲気の獲得に成功しているが。…そうね。女子はイヤかも。
(実は猫好きアーティストの一人だった。このスモックも展示してあった)
★ ★ ★
他にもオットー・ヴァーグナーの工房作品や都市計画・建築一般図、ウィーン工
房のアクセサリーなど、展示は多岐にわたっていた。じっくり観ると大変。自分が
なにを一番鑑賞したいのか、それを決めて時間配分することをお薦めする。
ではランチに向かおう。
「長丁場で腰が痛いよう」![]()
(終わり)
いつもご訪問ありがとうございます。















