【原発、爆発。そのとき、老人ホームは?】
東洋経済オンライン
[8/30 06:00]
8月、福島第一原発の貯水タンクから大量の汚染水が漏れていることが報じられた。
その量、実に300トン。
福島第一原発事故がまだ終わっていないことを、日本中に、そして世界に印象づける出来事だった。
福島第一原発事故では、様々な悲劇が起こった。
原発間近の高齢者施設の避難もその1つだ。
自力では歩行もできず、普通の食事もできない寝たきりの利用者を抱えた高齢者施設の避難は過酷を極めた。
介護士・看護士たちは、自らの家族の安否もわからない中、放射線の恐怖におびえながら、それでも利用者に寄り添い続けた。
この経験と彼らの葛藤・奮闘は、ほとんど報じられていない。
そこで本稿では、原発事故当時の介護士・看護士の葛藤と奮闘を克明に描いたノンフィクション『避難弱者――あの日、福島原発間近の老人ホームで何が起きたのか? 』の著者、相川祐里奈が、原発事故直後の高齢者施設の避難の実態をレポートする。
原発再稼働に向けた動きが加速する中で、原発事故が何をもたらすのか、振り返って考えるきっかけになれば幸いである。
次の災害で「避難弱者」になるのは、あなたの家族かもしれないのだ。
■ 原発爆発――。そして突然の避難
福島第一原発から約7kmに位置する富岡町の養護老人ホーム「東風荘(とうふうそう)」。
施設を囲う桜のつぼみが少しずつ丸みを帯び始めていたころだった。
「志賀さん、終わりだ。
原発が爆発した――」
ドッカーンという大きな音とともに地響きが施設を襲った。
窓ガラスが音をたてて揺れている。
職員がバタバタと音をたてながら施設長の志賀昭彦(当時59歳)にかけよってきた。
外にいたその男性職員は、原発の方向から爆発音がしたことに気付いたのだ。
爆発から10分もしないうちに電話が鳴った。
志賀施設長が受話器をとると、相手は福島県災害対策本部の職員だった。
「緊急に避難してください! これは避難要請ではなく、避難命令だ! 総理大臣命令だ! 」
県職員はそれだけを口早に伝えると、一方的に電話を切った。
志賀施設長は呆然とした。
原発の状況はそんなにも深刻なのだろうか。
利用者をどこにどう避難させればいいのか。
途方に暮れていると、施設の前に巨大な観光バス3台が次々と到着した。
バスからは白い防護服とガスマスクを着用した警察官が次々と降り、土足のまま施設に飛び込んできた。
「とにかく早くバスに乗れ! 」■ 衰弱する高齢者
白い防護服の警察官が大声をあげた。
東風荘には、足が曲がらない人や終末期ケアを受けている人など、座位を保ことさえも難しい人が多くいる。
酸素ボンベがなければ呼吸が止まってしまう人もいる。
こんな状況の人たちをバスに乗せろと?
こうした人たちを移動させるには、医療機器が備わっている救急車やドクターヘリが使われるのが通常で、観光バスに乗せるということが志賀にはまったく信じられなかった。
介護にかかわってきた人間からすれば、無茶苦茶な話なのだ。
「とにかく早くしろ! なんで早くできないんだ!? 速く歩け! 」
防護服の警官がよたよたと歩く利用者に声を張り上げる。
その目には利用者の姿は写っていない。
職員は、警察官の怒声に焦って利用者が転倒しないよう「ゆっくりでいいから」と声をかけながら誘導した。
寝たきりの利用者は、まず、毛布などで身体をぐるぐる巻きに包み、四肢を固定させた。
その状態のまま職員3人がかりでバスの乗降口に担ぎ上げ、バス内部で待機している職員2人に受け渡した。
赤ん坊のように毛布に包まれた利用者は、2人がけの直角のシートに斜めに立てかけられたり、身体を支えるために職員を横にはりつかせたりした。
「川内村方面へ向かいます」
バスに随行していた県職員が言った。
バスはいっぱいになるやいなや、次々と出発していく。
志賀施設長は、避難先は確保されているものだと思っていた。
しかし、バスが到着したのは、川内村内の空き地。
バスの中ではすでに、心肺停止に陥る利用者が出始めていた――。
東風荘の避難が終わったのは、震災から10日後。
介護環境のある施設に避難できるまでに、利用者73人中、3人が命を落とす結果となり、3.11からの1年間の死亡者数は例年の約2倍となった。
■ 介護物資が足りない
今回、福島県内の高齢者施設の中には、介護環境がまったくない学校、工場、体育館などへ避難した施設が多かった。
そこにはどのような課題があったのか。
楢葉町のリリー園は3月12日、いわき市内の2つの学校に緊急避難し、学校の教室でおよそ10日間の避難生活を送った。
リリー園は利用者80人の特別養護老人ホーム。
約60人の介護職員が勤務していたが、一時避難先である学校から二次避難先である福島県南東の病院に避難するころには、職員は15人程度に減った。
リリー園、介護職員の新妻高充さん(当時42歳)は震災以降、5歳になる息子と両親の行方がわからないまま、心が張り裂けそうな不安と焦りの中で、リリー園の利用者の介護を続けた。
「食事を与えようにも、特に介護度の高い人は、避難所に配布されるようなオニギリやパンは食べられません」
避難生活の中でも大変だったのは食事だったという。
食べ物を飲み込む力や咀嚼(そしゃく)機能が低下した利用者の中には、オニギリやパンをそのまま食べられない人もいる。
そういった利用者には、配給されたオニギリやパンを再度ふやかして食べさせなければならない。
そのためには電子レンジやカセットコンロ、炊飯器などの加熱調理器具が必要だが、そうした設備は学校にはなかった。
リリー園ではこうした調理器具を職員たちが何とかかき集めた。
水さえも、そのまま飲み込めば気道に入り、肺炎を引き起こす原因になる。
水にとろみをつけて飲み込みやすくする「とろみ剤」や、まったく口から栄養がとれない人のために、「経管栄養剤」が必要になる。
しかし、こうした介護用品は、避難所には届かない。
そのため、わずかな介護の人手を割いて、ドラッグストアや病院に探しにでかけなくてはならなかった。
リリー園の職員は、昼夜を問わず不眠不休で続く介護の中で、疲弊していった。
■ 逃げるのか、守るのか
そんな中、独自避難し、離脱する職員が後を絶たなくなった。
介護職員の減少は、直接、利用者の命にかかわる。
しかし、その職員1人ひとりにも守らなくてはならない家族がいる。
家族と利用者を天秤にかける――。
その判断を職員1人ひとりが行わなくてはならなかった。
「どこまで職業として職員に求められるのか。
私も答えがみつかりませんでした。
家族をおいてまで利用者をケアするのはどうなのかとも、正直思います」新妻さんは、そう言葉を振り絞った。
福島第一原発の事故では、放射線の影響を恐れ多くの介護職員や看護職員が独自避難し、中には数人を残してほとんどの職員が避難する施設もあった。
職員が「利用者の避難が終わるまで残りたい」と言い張っても、施設長の指示で避難させることになったケースや、幼い子どもがいるなど家庭の事情で職員自ら泣く泣く避難したケースもあった。
残った職員には家族と連絡がとれない人もいたが、いつまでこの避難生活が続くのか見通せないまま、不眠不休の介護を連日続けていた。
日に日に身体的にも精神的にも追いつめられ、ベッドも介護用品も食事も限られた中で、どんどん利用者の容態が急変していく。
福島第一原発から33km。
南相馬市鹿島区の特別養護老人ホーム「万葉園」から横浜市の老健施設への避難を経験した介護主任、阿部雅志さん(当時33歳)に話を聞いた。
■ 現場職員の葛藤
「俺、多分、ギリギリまで帰らないから」
妻にそう連絡し、子ども2人を親戚とともに実家の秋田県に避難させて、万葉園に留まりました。
12日の福島第一原発の水素爆発を知ったときは、やべえなと思いましたよ。
死を覚悟しました。
すぐに頭に浮かんだのは「はだしのゲン」の1コマ。被ばくして赤く溶けた皮膚を引きずりながら、路頭をさまよう人たちでした。
私がいた万葉園には、50人の利用者がいましたが、同じ法人で避難区域内にある別の特別養護老人ホームから利用者、職員約60人が避難してきました。
ただ、水素爆発以降は職員数がどんどん減っていきました。
言い出せなかったんだと思いますが、直接避難することを告げる職員はあまりいませんでした。
数日後にメールや人づてで、避難したことを知りました。
いつも一緒に仕事をしていた仲間が急にいなくなることに、はじめは心の整理がつきませんでしたが、あのときは「しょうがない」と自分に言い聞かせるしかなかったんです。
ある職員は、避難したいけど残る職員が大変なのもわかっているので、避難を言い出せずにいるようでした。
私もその辛そうな表情を見て察してはいましたが、人が減るのが怖くて声をかけることができませんでした。
「すみません。本当に、すみません。」
数日後、その職員は頭を深々とさげ、涙を流して避難したいと言ってきました。
職員が減れば減るほど、本当は避難したいができない人への負担が増えます。
あのときは、「頑張ろう」なんて、もう言えない状況でした。
私を含め、利用者とともに残り、避難に付き添った職員は、人手も物資もない介護がいつまで続くかがわからず、施設としてこの先どうなるのか、誰も先行きを示せないことにいら立っていました。
どうなるかわからないという不安が、多くの職員の離職につながったという面もあると思います。
■ 今も残る後悔
「俺は、あのときいなくなっちゃったからな」
少し落ち着いた後、避難した職員に連絡をとり、再度介護施設で働こうと声をかけると、こうこうこぼす人がいたんです。
彼だけではありません。
多くの職員が後ろ髪を引かれる思いで辞めていき、数年たった今でも避難した自分を責め続けているんだと思います。
あのとき、避難する、避難しないに正解はなかった。
利用者も大切だけど、家族も守らなければいけない。
実際の被ばく量もわからず、将来どんな影響が出るのかもわからない。
これからどうなるのか先が真っ暗闇の中で、そのとき家族と避難すると決めた道が悪いなんて言えないはずです。
避難した職員は自分を責めないでほしいと思います。
書籍『避難弱者』では、事故当時の高齢者施設避難の実態を記録し、避難した施設、避難しなかった施設、受け入れ施設それぞれの状況を事実に忠実に描くとともに、そこから今後の避難対策にあるべき課題を抽出している。
読者の皆様に当時の過酷さをお伝えするとともに、将来への教訓としていただきたい。
次回は、行政より早く避難高齢者の受け入れに動いた会津地方の施設の実態をご紹介する。
お知らせ
2013年9月11日に著者の基調講演会(わかりやすいプロジェクト主催、東洋経済新報社、福島県社会福祉協議会老人福祉施設協議会、日本医療政策機構後援)を行います。
詳細、お申し込みは「わかりやすいプロジェクト」ホームページまで。
入場無料。
~~~~~~~~~~~~
静岡の自宅でテレビの映像で福島第一原発の水素爆発を見た時、「とんでもない事が起こった!!」と、激震した。
すぐに東北方面で被災ペット保護活動をしていた仲間に「原発が爆発した!!福島には近付かない様に」連絡した事を思い出す。
福島から遠く離れた静岡で水素爆発の映像を見た自分がショックを受けたのだから爆発を間近で体験した人達の衝撃は、そうとうなものだったのだろう。
当時、双葉病院でも同じ状況に陥っていた。
日本の原発は、日本を取り囲む様に存在する。
何処でも「避難弱者」が瀕死の思いをする可能性がある。
自民党・安倍政権は、この様な話しを知っているのか!?
多分、知っていても原発政策に影響を及ばさない様に知らないフリをしているのだろう。
知っていて心があれば「二度と福島の悲劇を繰り返さない為に安全を前提に原発を再稼働させる」などと言えないはずだ!!
経済成長の為に多少の犠牲はやむ得ない。と、言うのが今の日本のやり方なのだ!!
数十年後には、再び原発事故が起こる。
その時までに同じ悲劇を繰り返さない為にも「避難弱者」の適切な誘導・移動と受け入れ先の確保は考えておくべきだ。
近付く南海トラフ巨大地震に備えて…
.