誰のために生きるのか  
終わる愛・終わらない愛 (P.189)
(PHP研究所)

 現代においては「他人のため」などというのは限度があるのではないか。結局、人間は本当に最後まで「他人のため」に生き抜けないのではないか。長い一生の間には、どこかで自分が出てしまうのではないか。一度決めた「他人のため」の人生であっても、いつか我慢しきれなくなって自分がでてしまい、結局、他人に迷惑をかけるだけで終わるのではないか。人間は結局「自分のため」に生きるのがいちばん他人に迷惑をかけないですむのではないか。「他人のため」に生きるポーズはそれだけ他人に期待をかけさせて、結局、最後にはその期待を裏切ってしまうのではないか。それなら最初から期待などかけさせないほうが、迷惑をかけないですむ。人間とは、そんな悲しいエゴイストなのかもしれない。自分が本当に生きるか死ぬかの不幸に追い込まれたら、もう他人の不幸などにかまっていられなくなるのかもしれない。最後のところで出てくるのは、やはり「自分を守る」ことなのであろう。



“自分のため”に動いてはじめて物事がうまくいく  
終わる愛・終わらない愛 (P.193)
(PHP研究所)

 人間は「他人のために」など何かをしてはならない。「自分のために」何かをして、はじめて人間関係もうまくいくのではないか。ことに恋愛においてはそうでないかと思う。「あなたのために」 ××をした。こうなれば、必ずその報酬を求めるようになる。あなたのためにこれだけしてあげているのだから、これくらいしてくれてもいいでしょ、となる。すくなくとも僕はそうだ。そうして、そうなったら二人の関係は、やがておしまいになるのではないか。「俺はおまえのために、こんなにもいろいろなことをしてやったのだ」「俺はおまえのために、こんなにつらいことをしたのだ」となれば、相手の行動が天使であることを要求する。相手の言動がちょっと気に入らなければ、ヒステリーのように怒る。たとえば旅行に行くとする。「せっかく連れて行ってやるのに」という気持ちがあれば、その準備の時、相手が少しでも何か不愉快な顔をすれば、ものすごく不満になる。まして恋愛のような濃密な関係であれば、その不満も大きく、求める報酬も大きい。「誰に頼まれてやっているのでもない。この俺が望んでいるのだ」ということをして、はじめて人間はどのような自体に遭遇しても不満がなくなる。お互いの間に不満があれば、やがてその二人の関係はだめになる。人間は自分のためにすべてのことをしなければならない。



心の不安葛藤に負けない生き方
終わる愛・終わらない愛 (P.217-P.219)
(PHP研究所)

 残酷になれないものは人を愛することができない。一見やさしい人間というのが、自分も他人もいちばんだめにしてしまう。ある人を見てかわいそうでかわいそうで見ていられない、というようなタイプこそ、人を愛する能力をもち合わせていないタイプである。かわいそうでかわいそうで見ていられないというのは、たいてい相手に自分を同一化して、その自分が苦しくてたまらないからにすぎない。いま苦しいのは相手を見ている自分なのか、それとも相手そのものなのか、その点をはっきりさせることが人を愛する第一歩である。つらくて悲しくて淋しくて、もう発狂しそうになって自分がどうかしてしまうのではないかと思うほど苦しい時でも、人間はつらいのは自分なのか、それとも相手なのかを、はっきりと自覚しなければならない。“かわいそう”という気持ちに負ける時、人間はだめになる。自分の感情に負けてしまう者は、人を愛する能力をもたない。はじめに「残酷になれないものは人を愛することはできない」といったのはそのことである。