毎年のこの頃は、畳の間で昼寝をしながらラジオで高校野球を聴くのが私の楽しみです。

残念ながら、熊本県代表の熊本工業高校は、1回戦で長崎商業高校に負けてしまいましたし、お隣の宮崎商業高校は、選手ら13人のコロナウィルス感染判明で出場辞退となりました。

でも、同じ九州勢で勝ち残っている学校を応援するのが人吉球磨の習わしであり、今日も長崎商業高校や沖縄尚学高校の試合中継をラジオで聴いていました。(熊本工業高校に打ち勝った長崎商業高校には特に頑張って欲しいです。)

ところで、熊本工業高校と言えば甲子園の常連校ですが、巨人軍元監督の川上哲治さんの母校としても有名です。

しかし、その川上さんが、元々は人吉市の出身であることはあまり知られていません。

また、昭和30年代生まれ以前の人にとっては大スターであるものの、今の若い世代にとっては歴史上の人物でしょう。

そこで先ずはwikipediaから引用しながら、川上さんのことを紹介して行きます。
 

川上 哲治(かわかみ てつはる(現役時代は「てつじ」)、1920年(大正9年)3月23日 - 2013年10月28日)は、熊本県球磨郡大村(現:人吉市)出身のプロ野球選手(内野手、投手)・監督、野球解説者。NPB初のベストナイン(一塁手部門)も受賞している。妻は宝塚歌劇団娘役の代々木ゆかり(在団1936年 - 1944年)、ノンフィクション作家の川上貴光は長男。

 

現役時代より、その卓越した打撃技術から「打撃の神様」の異名を取り、日本プロ野球史上初の2000安打を達成した。戦時中から戦後におけるプロ野球界のスターとして活躍。終戦直後は「赤バット」を使用して川上のトレードマークとなり、「青バット」を使用した大下弘と共に鮮烈な印象を与えた。また、青田昇や千葉茂と共に第一次巨人黄金時代の打の中心選手でもあった。監督としてもアル・キャンパニスによって定型化された『ドジャースの戦法』の実践を目指し、王貞治・長嶋茂雄らを率いて読売ジャイアンツの黄金時代を築き上げ、プロ野球史上唯一の「V9」(9年連続セ・リーグ優勝・日本一)を達成するなど多大なる功績を残し、「プロ野球界の生き神様」とまで呼ばれる伝説的な存在となった。引退後は、少年野球教室を開くなど、普及に努めた。愛称は「打撃の神様」「哲」「カワさん」「ドン川上」「赤バットの川上」、長年世田谷区野沢に居住したことから「野沢のおやじさん」とも呼ばれていた。

 

とあります。


そして、ここからは人吉/熊本在住時代を中心に他のサイトの情報も参照ながら、私が見聞きしたことを付け加えます。

 

幼少期に、父親が博打で破産する。熊本県人吉市の大村尋常高等小学校(のちの人吉市立人吉西小学校)時代に九州大会優勝、卒業後、篤志家の援助で熊本県立工業学校(のちの熊本工業高等学校)に入学。一旦は退学し、済々黌中学(のちの熊本県立済々黌高等学校)に編入、さらに人吉中学校(のちの熊本県立人吉高等学校)を経て、熊本県立工業学校に復学。2年生の4月から左打ちに転向した。

 

家庭環境については、川上哲治生誕100年記念サイトにはもう少し詳しく書かれているので引用させていただくと、

 

川上哲治は、大正9年(1920年)3月、球磨郡大村(現在の人吉市南泉田町)に川上伊兵次・ツマの長男として生まれました。家は、船宿を営み裕福な家庭でした。しかし、鉄道の開通など交通網の整備が進むと、生活は次第に苦しくなっていきました。小学生時代の川上少年は、父や母を助けるために、朝と夕方、豆腐やこんにゃくを売って歩いていました。

 

元々兄弟が多かったのと家庭のことで苦労をされたものの、文武両道の優秀な方であったのは、後に熊本の名門である旧済々黌中学(のちの熊本県立済々黌高等学校)に編入されたことからも分かります。

そのあとに転向された旧人吉中学校(のちの熊本県立人吉高等学校)は、私の家内の母校ですから、川上さんは家内の大先輩になります。

再び戻った熊本工業高校を卒業後は巨人軍に入団して戦時中は軍隊に進むも終戦を迎えると、

 

郷里の人吉に帰り、家族を養うために農業に専念していた。

 

とのことですが、当時はプロ野球選手でも食べるのに苦労していたようで、

 

神戸の実家に疎開していた身重の妻を見て、食料を自給自足でつくるために故郷の熊本に帰ることを決意する。その後、故郷熊本の人吉で、重い肥桶をかついで、一日に2キロの道中を12,3往復していた。

 

のだそうですが、川上さんの生家は人吉市の住宅地域にあったので、田畑が離れていたのかもしれません。

因みに、その生家跡は、



となっていて、人吉球磨の隠れた観光スポットですし、後に人吉市の名誉市民となられた川上さんが命名された「川上哲治記念球場」は人吉市蟹作町

 


 
にあり、施設内には、川上さんが寄贈した品々を展示しているコーナーも併設しています。

再びwikipediaに戻ると、

 

戦力に乏しいロサンゼルス・ドジャースが毎年優勝争いをしている点に注目し、ドジャースのコーチのアル・キャンパニスが著した『ドジャースの戦法』をその教科書として、春季キャンプからその実践に入った。コーチ兼任となった別所毅彦が鬼軍曹的な役割を担い、選手たちに猛練習を課した。また、コーチとして招聘した牧野茂が中心となってサインプレーや守備のカバーリングなどを日本のプロ野球界で初めて導入していった。また、選手のプレーひとつひとつに、そのプレーの状況別の意味合いなどを踏まえながら細かい点数を付けて、チームを運営していく独自の「管理野球」を構築した。

ことが書かれています。

当時は「管理野球」に対するイメージはよくなかったと記憶していますが、要するに、
 
プロ野球をシステム化
 
させたわけであり、結果として、

 

1973年まで9年連続リーグ優勝と日本一のいわゆる「V9」を達成

して、その記録は今日でも破られていないのですから、川上さんが残された功績は偉大であり、人吉球磨の誇りです。