最近、テレビ、新聞や雑誌などで拙著『ママ、ごはんまだ?』の書評が掲載されました。
皆さん、ありがとうございます。

今日は早稲田大学大学院•日本語教育研究科の川上郁雄教授が書いて下さった書評をご紹介させて下さい。

川上教授は、国籍や言語や生活世界などにおいて、多様な背景をもつ子どもたちの「ことばの教育」(「移動する子ども」学)についての研究されています。
教授との出会いは今から約4年前。教授の著書である『私も「移動する子ども」だった―異なる言語の間で育った子どもたちのライフストーリー』(くろしお出版)に関するインタビューからでした。

ちょうどフジテレビの昼ドラ「エゴイスト」の撮影中でしたので、ものすごい厚化粧のまま、教授とお会いすることになったのです。
つけまつげを3枚重ねてつけたまま、真剣に台湾で過ごしていた幼少期に中国語、台湾語、日本語が自然に飛び交う環境下でどのように感じていたかを話しました。だけれども、体系的に当時のことを考えたことがなかったので、雑談のようになってしまい、教授が知りたかった内容だったのか不安でしたが、出来上がった本を見て驚きました。
私の気持ちを透視できるのではないかと思うくらい、当時もどかしさや感じていたことを言葉にして下さっていたのです。

台湾では日常から中国語と台湾語が飛び交っています。若者の間ではそれらに英語が加わったり、お年寄りの間では日本語が加わる場合が少なくありません。
台湾に戻る度、そんな環境を羨ましく思い、刺激を受けて帰ってきています。

『ママ、ごはんまだ?』には、幼少期に台湾や日本で食べてきた母が作る台湾料理や日本料理にまつわる思い出を書きました。
言語と関係ないのに教授はどのように評価して下さるのか?と疑問だらけでしたが、教授の視点から読んだ『ママ、ごはんまだ?』は、自分自身で書いた本に対する新しい考え方を提示して下さいました。

少し長くなりますが、原文のまま以下に引用させて頂きます。
みなさん是非読んで下さい。



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<書評>「移動する子ども」という「食の記憶」
  川上郁雄(早稲田大学)

一青妙著(2013)『ママ、ごはんまだ?』講談社 定価1400円+税

 先日、一青妙氏(以下、妙さん)から本書をいただいた。本書は妙さんの2冊めの「エッセイ」であるという。妙さんは、台湾人の父親と日本人の母親(一青は母親の姓)のもと東京で生まれたが、生後6ヵ月から11年間、台湾で過ごした。本書には、幼少期に妙さんが味わった「台湾の味」「日本の味」の「食の記憶」が語られている。
 物語は、日本人の母親(一青かづ枝さん)が書き記した台湾料理のレシピの手帳を、妙さんが偶然見つけたところから始まる。妙さんの母親は結婚後、台湾に渡り、夫や家族のために覚えたての台湾料理を作った。それは1970年代から80年代の頃である。
その台湾料理は、蘿蔔糕(ルオボーカオ:大根餅)、鹹蜆仔(ギャムラーアー:しじみむし)、糕渣(カオチャー:台湾天ぷら)、紅豆糕(ホントウガオ:小紅豆)、蕃茄海參(ファンチェハイシェン:ナマコとトマトの炒め)、三杯鶏(サンペクチー:鶏のぶつ切りしょう油煮)等々と幅広い。前述の母親の手帳には、37品のレシピが綴られていたという。
ただし、本書は、台湾料理を紹介する、単なるレシピ本ではない。確かに、本書には妙さんの母親が経験した台湾料理のことが詳しく記述されている。台湾料理の作り方や味に関する記述、調味料や調理器具(蒸し器や圧力鍋)も含む食文化に関する記述などがあり、当時の台湾の人々の食生活を垣間見る思いがするが、よく見ると、台湾人の父親と日本人の母親が台湾で暮らしながら味わった「台湾の家庭料理」だけではなく、台湾人の父親が好んだ日本料理(日本から取り寄せた湯豆腐鍋で食する「湯豆腐」など)の記述もある。
父親は日本食を好み、日本に一時帰国する妻に「味付け海苔」やいくら、うに、荒巻鮭を持ち帰るように頼んだりしている。父親の食卓には、「枝豆、カラスミ、イカの塩辛、板わさ、おひらし、煮魚、冷奴、酢の物、野菜の炊き合わせ、お刺身、天ぷらなどの和食と中華のつまみ系ばかりが並んだ」(p.108)という。
 妙さんの父親がなぜ日本食を好むのか。それは彼が子ども時代を日本で過ごしたことと関係があるようだ。顔恵民という父親は、台湾の鉱山王と呼ばれた顔家の跡継ぎで、10歳のときに日本へ「内地留学」させられ、学習院中等科を経て早稲田大学へ入学した。終戦前の話である。父親にとって日本語は「母国語」であり、日本食は「母食」だったと妙さんは前著(一青、2012、p.102)で述べている。
 父親が好んだ日本食、母親が作った台湾料理。そして、妙さんの家族が日本と台湾の間を往還した歴史。本書には、その環境で成長した妙さんの「食の記憶」が記述されているのである。その食の記憶は、詳細で多様である。母親の料理だけではなく、子どものときに乗った台湾の列車で食べた駅弁、東京に住む伯母がさばいてくれたホヤや「アジの南蛮漬け」、中学の時にお弁当につめた豚足、東京のお正月の「鶏ガラスープ」などの記憶が、日本語の豊かな文章力で鮮やかに表現されている。まさに、「移動する家族」(川上、2013)の記憶が構成する「食のエスノグラフィー」なのだ。
 私が本書に魅かれた理由は、それだけではない。本書は「移動する子ども」の言語教育を考える上で多くの示唆を与えてくれるからである。
 私は、数年前、アメリカのUCLAで開かれた継承語教育世界大会に参加したおり、「日本語継承語教育」の研究発表を聞いた。その発表は、アメリカで成長する子どもに日本語を継承させるには、幼少期より日本食を食べさせることが重要だという主張だった。博士号を持つ母親の自らの体験にもとづく発表であったので、聴衆はすこぶる納得した様子であった。しかし、もしそうなら、妙さんのケースの主題は、妙さんの母親が台湾でいかに日本食を妙さんに食べさせ、日本語を継承させたかということになろうが、本書からは、そのような悲壮な実践は見当たらず、日本人の母親が作った台湾料理と日本料理が台湾においも東京においても妙さんを豊かに形づけていることがわかる。台湾の現地校の小学校に通っていた妙さんが11歳で帰国し、学習院女子中等科へ入学するときに書いた中国語の作文(一青、2012)があるように、中国語は現在の妙さんの複数言語のひとつとなっている(妙さんの中国語についての思いは、川上編、2010参照)。
 このような妙さんの複数言語使用の生を、複合的な、ハイブリッドな生とまとめることはたやすいことだが、それだけなら、本書を読む人は「中国語と日本語を使用できる妙さんは成功例ですね」で終わってしまう。成功、不成功というより、重要なのは当事者が複数言語とどう向き合い、どう生きているのかであり、そのことを考えることが私たちにとっては重要なことだろう。
本書には、日本と台湾を往還しつつ複数言語環境で成長した妙さんの記憶が、台湾料理と日本料理の食に関する記憶によって彩られており、かつそれらの記憶が台湾語と中国語の語彙や表現と織り交ぜられて示されるように、複数言語と密接に結びついていることがわかる。それは、家族の複数言語使用とも関連するだろう。妙さんは両親の複数言語使用について次のようにいう。
「父はといえば、日本の統治時代に日本語教育を受けた世代だったので、日本語と台湾語は話せたが、北京語はからきし駄目だった。私が記憶しているのは(中略)、日本語と片言の台湾語で会話をしながら、忙しそうに口と手を動かしていた母の姿である」(p.84)。
幼少期より複数言語で成長する子どもの記憶は複数言語とともに形成される。そしてそれがアイデンティティ形成と密接に関わる。このことは、複数言語環境で成長する子どもへの言語教育は子どものアイデンティティ形成を中心に据えた複数言語教育であることを示唆する。同時に、このことは、第二言語として日本語を学ぶ子どもたちに、あるいは海外で親の継承語として日本語を学習する子どもたちに、日本食を食べさせたり語彙や漢字や文型を覚えさせれば事足れりと考える日本語教育実践に疑問を突き付けることになるだろう。
 本書は、「移動する子どもという記憶」(川上編、2013)のレパートリーに、「移動する子どもという食の記憶」が含まれることを、私に教えてくれた。本書は、前著(一青、2012)とともに「移動する子ども」学を考える上ではずせない貴重な学術書と評したい。

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参考文献
 川上郁雄(2013)「幼少期より複数言語環境で成長した子どもの経験と記憶はその後の生にどのような影響を与えるのか-台湾と日本で成長した一青妙氏とその家族の歴史を例に-」『2013年度日本語教育学会春季大会予稿集』pp.269‐274.
 川上郁雄編(2010)『私も「移動する子ども」だった―異なる言語の間で育った子どもたちのライフストーリー』くろしお出版.
 川上郁雄編(2013)『「移動する子ども」という記憶と力―ことばとアイデンティティ』
くろしお出版.
一青妙(2012)『私の箱子(シャンズ)』講談社.