おはよう御座います😁

雨☔️が止みました。今回は城ブログ宇土城の第2弾です。




前回の宇土城は小西行長が築城された城で石垣が残っていたのですが今回は古城なんで中世のお城の雰囲気があります。
宇土城❶は↓をクリック

『304宇土城(熊本)①』こんばんは、おくれまして九州城巡り第4弾!宇土城です。個人のお城カウントで古城とセットでカウントするか別々でカウントするか悩むのだけど、宇土城の場合は宇土古城…リンクameblo.jp

【宇土古城】


築城 1048年 藤原頼通

廃城 1587年

城郭 平山城

天守閣 なし

標高 39m   比高 35m


知名度 ★☆☆☆☆☆

満足度 ★★★☆☆☆

遺構度 ★★★☆☆☆

疲労度 ★☆☆☆☆☆☆


宇土古城は西岡台とも言われおり一説に藤原頼通下向乃際に築かれたという伝承がある。

平安時代から鎌倉時代にかけては紀氏から流れを組む宇土氏が支配し勢力があったが鎌倉時代末期に衰退して、肥後国守護である菊池氏の一族より知名をとって宇土氏を名乗る一族が現れた。

南北朝時代に宇土高俊は1348年に懷良親王(後醍醐天皇の子)一向を迎え入れて以来終始南朝方につき活躍する。しかし1370年より九州探題に補任された今川了俊(駿河今川氏の分家)により九州攻略が始まり1390年には宇土氏は降伏する。今川了俊は降伏者には所領安堵方針だった為に宇土氏は継続される。室町時代後期になり宇土忠豊の養子として菊池持朝の子菊池為光が宇土氏になり宇土為光と名乗り継続した。菊池為光は野心ある人物でまずは本家の肥後守護にあたる甥の菊池重朝と討とうとするが敗北し名和顕忠の元に逃れ名和氏と姻戚関係を結ぶ。1499年に宇土城を奪還して1501年に再び反旗を翻して菊池武運を破り肥後国守護を奪還した。しかし1503年に菊池武運の逆襲に遭い敗北し宇土為光は筑後国に逃走したが現地で捕まり子宇土重光や孫宮満丸と共に処刑されて菊池宇土氏は滅亡した。

菊池宇土氏が滅亡後に宇土城には菊池氏の家臣城為冬が城代として入るが1504年に菊池武運が急死して混乱になり宇土城を捨てて本国へ帰った。
空城になったところに宇土為光の娘婿の名和顕忠が入り以後名和宇土氏として宇土城に入るが宇土氏と名乗ったのは宇土行興からである。
下の系図を参照

戦国時代に入り名和宇土氏は所領争いで相良氏との争いが続く1587年に豊臣秀吉に九州征伐に際して宇土顕孝は降伏し所領を安堵されるが、同年に肥後国一揆に際して中立を守った為に嫌疑がかかり、弁明の為に大阪に赴くき城代に弟宇土顕輝は豊臣軍の城明け渡し要求を拒否して籠城するも敗れ城外に逃れるものの殺害されてしまい名和宇土氏は滅亡してしまう。大阪に向かっていた宇土顕孝は筑前国に僅かな所領を与えて小早川氏に家名を残した。その後豊臣秀次福島正則について福島正則より5000万石をもらっていたがそれでは家臣を養えないとして蟄居した。息子の宇土長興は江戸時代に立花宗茂の柳川藩に仕え明治にいたる。

余談だが宇土顕孝はアニメ日本むかし話に出てきたので貼り付けとこう。懐かしいなぁ市原悦子の声。


場所は前回と同じくここらへん


宇土城は宇土城から約500mぐらい西にあります。


宇土古城は、千畳敷と三城と二つの曲輪を軸に周りを曲輪に囲まれた城であるまずは駐車場から近い千畳敷へ


宇土城と同様に駐車場があり10台スペースぐらいかな。ありがたや

駐車場からいきなり階段があり真っ直ぐ伸びています。


段々の曲輪が綺麗に草刈りされています。


寝そべりたい😁


階段を登り切ると。


いきなり雰囲気ある千畳敷の門の復元と周りに空堀が周りに巡らされます。


宇土古城の横堀❶

とりあえず空堀を回ろう234mの距離があるらしい


宇土古城横堀❷


宇土古城横堀❸


宇土古城横堀❹


宇土古城横堀❺


宇土古城横堀❻


宇土古城横堀❼


宇土古城横堀❽


宇土古城横堀❾

横堀の発掘調査にて横堀虎口付近より五輪塔や宝篋印塔などの石塔が堀跡から大量に出土されました。出土状況から意図的に投げ込まれたと推定され、石塔の投棄による「城破り」(城の生命を断ち切る儀礼や儀式)を具体的に示す事例として注目されているそう

千畳敷を一周したので門から入る


簡単な門が復元され、中世の城イメージを出す為に木柵もある。


門の裏側

門を越えたら桝形になっている。


【千畳敷】

標高35mの東西50m×南北65mぐらいの広さに3カ所建屋跡が調査されており、一つは復元されている。


16号建 5m×14m


17号建屋 4m×8m


19号建屋 7m×6mこちらはイメージ復元。


千畳敷から降りて南側進むと三城へ

三城も綺麗に整備され曲輪の状況がわかる


三城の中心部へ歩く


千畳敷の横堀発掘調査により発見された石塔はこちらに飾られていた。


うわー😅なんか怖いな


三城の曲輪の石垣を発見!


三城の石垣❶

三城の石垣❷

三城の曲輪を上がって行く。

三城を上がって行く

三城の虎口付近。

三城の腰曲輪から北側を撮影。段々と曲輪が見える

【三城】
標高39m東西65m南北35mの長方形の曲輪。こちらも建屋跡が複数あり。南側には土塁や排水溝が発掘される。

三城の建屋その2

三城の南側の土塁

三城の南側土塁と排水溝。水溜め遺跡は深さ1.3mあり雨水などの水溜めの役割をはたしていた。

排水溝は三城の北川から南側に向かっ続いている。南側には傾斜しており城内に溜まった雨水を外に流れて出す仕組みになっている。

排水溝は南側に続いていて長さは30mぐらい続いている。

三城の南側の土塁の先にはまた曲輪がある。
もしかしたら南側からの守りが弱いから土塁を持ったのかな?

三城の東側にも排水溝?みたいな窪みがあるけどこれは怪しい😅

ここから駐車場に戻り宇土古城を後にする。


以上宇土古城はここまで次も熊本のお城です。