こんにちは、コロナウィルス自粛解除にて2ヵ月半ぶりに(府内なら須知城)県外城巡り徳島香川の城を回った。
本当は1泊泊りがけしたいけど出来ず。日帰り一日強行軍にて攻めてきました。なので早朝から城巡りできる様に深夜から出発した。

四国を入るのも約2年ぶり良い城が撮影できたら良いのだけど。

1城目は徳島県の南端の海部城。阿波9城の一つちゃんと良い城であります様に。

【海部城】

築城  1560年代   海部友光
廃城  1638年
城郭  山城
天守閣  なし
標高  50m  比高  50m

知名度  ★★☆☆☆☆
満足度  ★★★☆☆☆
遺構度  ★★★☆☆☆
疲労度  ★★★☆☆☆☆

海部氏は吉野城を居城としていたが、戦国末期に海部川河口付近に海部友光が築城したのが始まりである。海部氏は三好氏に従っていたが、長曾我部元親の四国統一に伴い阿波国の最前線となっていた。1571年に長曾我部元親の末弟島親益が病気療養の為に海路から有馬温泉へ向かう途中に強風により那佐湾に停泊していた。この知らせを聞いて海部友光が敵襲と思い手勢を引き連れて島親益を殺害してしまい。長曾我部元親は激怒し阿波国に侵攻するきっかけを作る。
1575年に長曾我部元親が大事を率いて海部城を攻め抵抗もするも落城し海部友光は逃亡し紀伊の方へ落ち延びた。その後香宗我部親泰が入り拠点とした。1585年に豊臣秀吉により四国侵攻により蜂須賀家政が封入すると阿波9城として大多和正之が入り中村重友益田一政益田行長と続いたが益田行長が藩に内緒にて木材切り払い江戸で売り私服を肥やしたて謀反を企て処刑されてしまった
。1638年廃城となり東麓に陣屋が置かれた。


海部城は徳島県の南部室戸岬まであと50km前までくる。京都の自宅から片道約280kmを4時間かけて到着した。

海部城の航空写真

海部城の縄張り図がないので余湖さんの城から引用します🙇‍♀️

深夜0時30分過ぎにひたすら走って夏至の早朝4時30分に海部城に到着。運転疲れた(ーー;)
夕焼けではありません。手前は海部川河口付近。

海部城に入る駐車場入口。

駐車場は期待していなかったが…あったので嬉しい。




駐車場は5台分ぐらい停めれる。駐車場脇には説明板もある。

登山口




海部城登山道①

海部城登山道②

海部城登山道③

海部城登山道④
ちょっとだけ急な階段。

海部城登山道⑤
短足な私に生意気な階段。

海部城登山道⑥
ふとちょっと気にする石積み

海部城の最初の曲輪。

細長い曲輪になっておりそこから景色が見える。

まだ明るいなりきってないが綺麗な景色。
海部川河口付近。

まだ森のトンネル暗っ怖っ
まだ早朝5時にもなっていないしなぁ

海部城登山道⑦
また登山道を遮断する様に2段の石積みがある

海部城登山道⑧

【三の丸】
三の丸ちゃんと削平して木を切ってくれている

三の丸から二の丸へ向かう
倒木の下をくぐって
海部城登山道⑨
まだ薄暗い登山道

海部城登山道⑩

海部城登山道⑪

【二の丸】
二の丸に到着伐採して整備されており伐採の残骸が二の丸の中心に集められている。



二の丸から見る海部川と街並み

二の丸から見る海部川その2
まだ薄暗い

二の丸から本丸へ向かう

二の丸から本丸への階段。ロープを据えていのは助かります。

【本丸】

本丸付近は写真多く取ったので撮影ポイントを❶〜❾に分かれて撮影。

❶本丸前曲輪
左側には50cmぐらいな土塁がある

❷本丸前の二段石垣
本丸前曲輪より本丸の間には二段石垣がある。
❷二段石垣を拡大


❸本丸の東端

❹本丸の石垣
2〜3段になっている。

❺本丸石垣その②
本丸の角の石垣で

❻本丸の全体写真
❸〜❺の撮影ポイント。

❻本丸の木碑

❼本丸の西側の石垣でおそらく虎口じゃないかと思ったなら太平洋戦争に砲台を設置する為の石垣と知り_| ̄|○
石垣が違ったからん?とは思ったが…

❼石垣が崩れない様に支えがある。

❽本丸の枡形部分?この妄想も崩れた。

❾本丸の後曲輪
まだ暗い


【本丸南側曲輪群❶】
ここからは段々と曲輪があり
降りて

【本丸南側曲輪群❷】
曲輪があり
更に降って

【本丸南側曲輪群❸】
本丸南曲輪の端の曲輪。

曲輪先に腰曲輪があり周りこんで降りる。

【南曲輪群の腰曲輪】
本丸南曲輪群の最端曲輪の腰曲輪

このまま降りる。

南郭の堀切部分。

【南郭の堀切】
かなり深い堀切15mぐらいあるかな?

深い堀切の西側は竪堀になっている。

南郭へ向かう為階段を登る

南郭の虎口

【南郭の上段】

南郭の上段小さな曲輪

【南郭の下段】

南郭の下の段。電波塔がある。

電波塔は邪魔だけど仕方がないなぁ

【海部陣屋】
南郭から見る陣屋跡、東麓には住宅がぎっしり。
太陽が昇ってきた。

最後に
【判形人屋敷跡の碑】
城山北端の丘の上には判形人屋敷跡の碑があり、判形人は、森志摩守に従って朝鮮の役に参戦したり、阿波水軍として大坂の陣にも従軍して功績を立てました。

階段を登る

上はこんな感じ。

お墓もある判形人の墓なのかな?

以上海部城でした。