こんばんは
本日2回目の記事。城ブログ
コロナ騒ぎで外出も難しく私の城計画も白紙に、我慢の時もわかりつつも城巡りを狂わせている。
まぁ〜人の合わなさそうな山城ならとは思いつつ思案中でも今年で300城突破したいな。

今回の上月城は矢筈城→医王山城→上月城と3城目時間は17時10分クタクタな中日没の時間との戦い。早歩きでの城巡りスタート


【上月城】

築城  1336年  上月景盛
廃城  1578年
城郭  連郭式山城
天守閣  なし
標高  191m   比高  110m

知名度  ★★★☆☆☆
満足度  ★★★☆☆☆
遺構度  ★★★☆☆☆
疲労度  ★★★☆☆☆☆

上月氏は赤松氏の支流で上月景盛の時に1336年に上月城を築城し上月盛忠ー上月盛家と続き上月景家の時に1441年の時に嘉吉の乱の時に赤松満祐に従い室町幕府より追討を受け上月氏の嫡流が滅亡した。
上月氏の支流の上月満吉が1457年に赤松氏の再興の為に奮戦し赤松氏が復権したものの、戦国時代の上月城は赤松政元の支配下にあった。
1577年上月城の城主赤松政範(赤松政元の子)織田信長に従属する姿勢の中、周辺の豪族を引き連れて織田氏に敵対する毛利氏に属していた。
赤松政範は宇喜多直家の援軍を得て抵抗したが織田軍に属していた羽柴秀吉軍の猛攻により敗死した。
織田軍は上月城の城番に主家を滅ぼされた山中鹿之助を置いた。山中鹿之助は尼子氏の遺児尼子勝久を引き入れて、まだ毛利軍の支配下にある宇喜多直家と上月城の小競り合いが続いたが1578年1月に宇喜多直家は本腰を入れて上月城を攻撃、形成不利と見た山中鹿之助は撤退。
宇喜多直家は元上月城の城主上月景貞を置き守らせたが1578年3月に再び羽柴軍を引き連れた山中鹿之助により落城し上月景貞は城外に逃れたが自害して果てた。
1578年7月に毛利軍と宇喜多直家と共に3万で上月城に迫り、尼子勝久と山中鹿之助は羽柴秀吉に援軍を要請しても三木合戦に専念して助ける事が出来ず、上月城の撤退の指示を聞かず籠城するが降伏して落城する。山中鹿之助も捕らえられて毛利氏により殺されてしました。
それにより上月城は廃城となった。
大河ドラマ【軍師官兵衛】より

上月城は兵庫県の西部の岡山県境の作用町にあります。

上月城の航空写真

上月城資料館、時間が17時まわっているために閉まっている。

登山口ここから380m比高110mの山道

上月城登山道❶

上月城登山道❷

上月城登山道❸

上月城登山道❹
ここから90度折れ曲がり尾根道へ

ちょうどこの位置から景色が見える。

まだ低いけど見下ろせる位置まで来た。

上月城登山道❺



上月城登山道❻
堀切が見えてきた。

堀切はわかるけど浅い。

上月城登山道❼

最初のa曲輪まで

a曲輪は綺麗に整備されている。

a曲輪とb曲輪の切岸。


b曲輪と本丸の切岸。

b曲輪からa曲輪を見下ろせる。

本丸虎口

本丸に到着。

本丸に到着。
本丸東側

本丸の中心部に供養塔が見える

赤松政範主従の供養塔

本丸からの南側腰曲輪を撮影

本丸の南側の腰曲輪(d曲輪)

本丸の南側腰曲輪その2



本丸から先へ


c曲輪付近。本丸と二の丸が連結している部分。

c曲輪かなり細長い。


ここからは二の丸へ

二の丸
細長い曲輪

二の丸から三の丸を撮影


三の丸付近

二の丸と三の丸の切岸

三の丸

三の丸の先には堀切が見える

ここからは三の丸からの堀切

三の丸の先の堀切




ここも浅い堀切

上月城帰り道❶

上月城帰り道❷

上月城帰り道❸

上月城帰り道❹

上月城帰り道❺

春の兆しが…
今は満開ですけどね。

上月城帰り道❻

下山した時は17時50分日没には免れた。
シンプルに整備された城でした。