こんばんは
益田七尾城の次の島根・山口城巡り第5弾!
❶月山富田城
❷三刀屋城
❸浜田城
❹益田七尾城
の次は津和野城。

島根の山奥の山城のイメージがあった為に相当な山城を覚悟していたら、リフトが乗れるという事で是非乗りたい衝動に駆られた。



益田七尾城から国道9号で約30km南西へ

津和野は石見の小京都と呼ばれ、鯉で有名ですね。

【津和野城】

築城  1295年  吉見頼行
廃城  1871年
城郭  連郭式山城
天守閣  あり詳細は不明

1581年に弘安の役後更なる元の襲来に警戒して吉見頼行を地頭を命じられ石見に下向し津和野に三本松城(津和野城の前身)を築城した。
後醍醐天皇が挙兵した時は吉見頼直は朝廷の味方したが、やがて北朝につき室町時代は大内氏の配下につく。
吉見頼行ー頼直ー直頼ー弘信ー頼弘ー成頼と続き
吉見成頼、信頼親子が1467年の応仁の乱の時に大内政弘に従って西軍として上洛した。
ところが1470年足利義政は居留守役大内教幸に働きかけ謀反を起こし同時に吉見信頼も裏切る。
しかし1471年に大内政弘の重臣陶弘護(陶晴賢の祖父)により鎮圧される。吉見信頼はなおも抵抗したが追い詰められ1478年に和睦を求め大内政弘に許される。
しかし…1482年に酒宴の席で吉見信頼は陶弘護を暗殺してしまう。吉見信頼もその場で内藤弘矩に殺されてしまった。
この事もあり陶氏と吉見氏は大内家臣でありながら因縁があり対立し続けた。
1551年陶晴賢が謀反し大内義隆を自害に追い込んだ時は吉見正頼は大内義隆側で反陶氏に位置していた為に反抗続けた。1553年に陶晴賢は姻戚関係を結んでいた益田氏と連合して15000人として三本松城を囲んだ。その時に吉見氏は毛利氏と密約して牽制した。1200人で籠城し約半年粘ったが和睦した。
1555年に厳島の戦にて毛利元就が陶晴賢を滅ぼした後は毛利氏に仕えた。
1600年に関ヶ原戦い後毛利氏は厳封され萩へ移った為に吉見氏に従った。
代わりに坂崎直盛(宇喜多直家の甥)が入り三本松城を改修して織部丸(出丸)を設け、石垣を積み、大手と搦手を逆転させ、天守を建てた。
1615年大阪夏の陣にて炎上する大坂城より千姫を救出する手柄をあげながら千姫強奪しようとしたと露見され(諸説あり)自害に追い込まれ改易された。
その後亀井政矩が4万3千石に入り明治に至る。
天守閣は1686年に落雷により焼失して以後再建されず。


明治期の津和野藩邸の古写真があり

藩邸跡に物見櫓が現存している。


その近くに
馬場先櫓が現存している。


まずリフト前の駐車場に停めて

津和野城の説明板
地図を拡大すると。

こんな感じ
今回訪問は津和野城本城と織部丸付近のみで津和野城の縄張りはかなり広い。
奥の支城に中荒城がある。時間があれば(笑)


リフト乗り場
往復450円程取られるがワクワクする。


スキーとかも嗜む事もないのでリフトはほぼ初心者で乗るタイミングが分からず緊張する。

まぁ転落しても死ぬ事ないなぁ

リフト横の石積みが気になる


反対側で年配の夫婦らしきお客さんが。

いいなぁ〜楽して登る乗って

リフト頂上付近。

リフト先に石州瓦の街並みがまた良い景色。

石州瓦は島根と広島の一部の屋根瓦。


リフト降り場からから尾根沿いの山道

尾根沿いなので傾斜はなく楽(笑)

今は改修工事中なのか仮道がある

堀切跡
説明板がある

わかりにくいけと確かに堀切あと。

織部丸の石垣

拡大するとこんな感じ。
実は残念ながら織部丸は改修工事の為に登れず。

瓦の残骸

仮道が長く続く


織部丸の道
工事中の為入れず(T ^ T)

説明板はあるけど

また仮道が続く

仮道その1

仮道その2

仮道津和野城石碑

ここで大手道と合流。
熊🐻がでるのか?

大手道

さて約100m程
道を登り

ちゃんと石段があり当時のものかと。

おおっΣ(・□・;)


おおおおお(゚ω゚)
これは凄い!

以上が津和野城❶おわり
次は津和野❷へ

ろくもんさんの好みそうな石垣です(笑)
津和野城は交通は不便ですがかなり感動する石垣です。