こんにちは
【長篠城】
二の丸
観音寺城→金沢城と続き
名城100が続きました。
金沢城の次は
長篠城
自宅から車で片道225km
余程混む以外は下道で行くので5時間かかりました。しかし三重の四日市付近はいつも渋滞がキツイ。
長篠城は日本100名城に入りますが城の規模が小さく、遺構も少ない。
長篠城の戦いによる歴史的関連が大きいのかも。
場所は豊川と宇連川の合流地点に築かれ
川の部分は断崖絶壁だが裏の北側の部分は平城になっています。
地図で見ると愛知県東部の新城市
静岡県の県境に近いです。
岡崎城まで約65km
吉田城まで約28km
あります。
【長篠城】
築城 1508年 菅沼元成
廃城 1576年
城郭 平城
天守閣 なし
1508年に国人菅沼元成が築城。
以後、長篠菅沼氏が継いで徳川家康に服属したが1571年に武田信玄の西上作戦の一端で武田氏の家臣天野景貫に攻められ攻守とも多く損害をうけたが当主菅沼正貞は心ならずも降伏し武田氏の傘下に入った。
1973年に武田信玄が病の悪化により西上作戦が中止され戻ると、その隙に徳川家康が長篠城を攻め奪還した。菅沼正貞は武田氏の援軍も近くまで来ているにもかかわらず、降伏開城し北の武田氏に逃れた。だが武田氏は菅沼正貞が徳川家康と内通していると疑い。そのまま小諸城に妻子と共に監禁してしまった。
その後、長篠城に入ったのが奥平信昌。
奥平氏も武田信玄の西上作戦に屈して武田傘下に入ったのだが、武田信玄の死の報告と領地加増を条件に武田氏を裏切った。
徳川家康も奥平信昌を武田氏との勢力の境目の長篠城に兵500を置いて守らせた。
奥平氏の裏切りに信玄の子武田勝頼が兵15000を引き連れ長篠城に攻めて包囲し長篠の戦いが始まるのである。
長篠城に兵500で籠る奥平信昌、武田軍15000に対し長篠城の要害と鉄砲を利用ししぶとく抵抗した。しかし武田軍の火矢が兵糧庫に当たり焼失し落城必至まできた。5月14日に家臣鳥居強右衛門が密使として岡崎城にいる徳川家康に援軍を要請。14日の夜に宇連川に潜り脱出し65km先にある岡崎城にいる徳川家康に15日の午後に到着し、緊急自体を報告。岡崎城にて織田信長軍30000と徳川家康軍8000の計38000の軍勢が長篠城へ向かう。鳥居強右衛門は先に長篠城に報告する為に戻る途中。16日に捕まり、武田軍とのやりとりで長篠城の豊川を挟む対岸に磔にして「援軍は来ない」と叫べと言われたが「あと2〜3日にて織田・徳川の援軍38000が来る」と叫び落城必至の長篠城の城兵を勇気づけた。
それに武田軍は怒り鳥居強右衛門は殺された。
18日に織田徳川連合軍が長篠城から約4km離れた設楽原に到着。武田軍も背後の長篠城を牽制する3000を残し12000で対陣した。
武田軍の古参の武将、内藤昌秀、山県昌景、馬場信春、小田山信茂、原昌胤らが反対する中、武田勝頼とその側近が決戦を決定。
20日夜、織田信長より家康の家臣酒井忠次に兵4000と検視の金森長近を加え長篠城を囲む武田軍を奇襲し開戦が始まる。
翌21日の早朝より織田徳川連合軍と武田軍が設楽原にて激突しあの有名な武田騎馬隊を鉄砲で壊滅する長篠の戦いの有名なところですよね。
武田軍は大敗しこれを気に滅亡する道へ進む。
長篠の戦い後。奥平信昌が長篠城に入ったが城の損傷が激しく新城城を築城し長篠城は廃城となった。
長くなったがこんな経緯がある
まず長篠城は国道151号線を北へ進むと(最近は新東名が開通し新城ICより3km北へ)
鳥居強右衛門の磔看板が(笑)
すぐ長篠資料館が見えてきます。
210円
100城スタンプもココで押せます。
長篠城の本丸イメージ模型
本丸の堀を囲む様にあります
資料館も二の丸
二の丸の間の堀、空堀になってますが
深く掘っています。南側は川に合流で天然の要害になっていますがこちら側は平城になっているので深く掘らないと弱点になっていますね。
たまたま電車がきたからパチャリ
入れませんが。
これだけでは寂いので
長篠の合戦場所の設楽原へ
長篠城から約4km離れた
設楽原にきました。正確には設楽原の戦いとも言われています。
設楽原戦場
高さ3mぐらいあります。
話はズレるが競馬の障害の馬(昔の馬はもっと小さい)1.5mは越えるのでそれぐらいは越えるし。
昭和57年復元だから30年ぐらいの前か。
設楽原資料館があります
長い銃
2.5mはあるな。
次の城は豊橋へ