こんにちは、今回の南関東城巡りの第3弾は本佐倉城です。続100名城でもあり千葉県の城巡りでは外せない城🏯ですね。さすが続100名城となれば案内も丁寧でびっくりしたした。

佐倉城も後日載せる予定ですが、個人的には本佐倉城の方が好きです。
ダラダラと書いたのでサクッと見てください(笑)
千葉氏の説明はまた三浦氏同様に長い文章で申し訳ないです💦


ではスタート❗️

築城  1484年    千葉孝胤

廃城  1615年

城郭  連郭式平山城

天守閣  なし

標高  33m      比高  24m


知名度  ★★★★☆☆

満足度  ★★★★☆☆

遺構度  ★★★☆☆☆

疲労度  ★★☆☆☆☆☆


平安時代中期から関東に土着していた千葉氏は桓武平氏の平良文流の子孫を自称しているが定かではない。1083年〜1087年の後三年役で活躍した平常兼が千葉介の称号を得て子孫は千葉氏を名乗ったと言う2代目は千葉常重千葉城を築き3代目千葉常胤は1180年源頼朝の挙兵に加勢を求められてそれを応じて平氏や奥州藤原氏まで戦っている。その功績もあり下総国の守護を任じられている。

※大河ドラマ鎌倉13人の千葉常胤。

5代目千葉成胤は1213年泉親衡の乱や和田合戦には北条義時に従っている。6代目千葉胤綱は1221年承久の乱にては幕府側に着き天皇側の首謀者の1人坊門忠信の身柄を預かっている。6代目千葉胤綱、7代目千葉時胤が早く亡くなり8代目千葉頼胤が継いだがまだ幼く叔父の千葉泰胤が代行している。1247年には千葉一族千葉秀胤が三浦方について静粛されているが千葉頼胤は北条方について難を逃れいる。その千葉頼胤は元寇により異国警固番役に当たり1275年に負傷を元で亡くなっている。9代目千葉宗胤も再び異国警固番役にあたり九州に赴いていたので本拠地に居た千葉宗胤の子千葉胤貞は幼く10代目は千葉宗胤の弟千葉胤宗に実権を握られしまった。これが南北朝時代に一族北朝と南朝に争う事になる。11代目千葉胤宗の子千葉貞胤新田義貞に従い南朝に千葉宗胤と子千葉胤貞は北朝について争う。1336年12代目千葉貞胤の子千葉一胤足利尊氏に敗れ戦死する事が起きている。同年1336年に千葉胤貞が急死すると千葉貞胤は南朝を裏切り北朝について足利尊氏について一族争いは終結する。

室町時代に入り14代目千葉満胤が1417年に上杉禅秀の乱にて上杉方に加担した為に足利持氏に一命は守られてたが長男15代目の千葉兼胤と共に蟄居引退をさせられる。16代目の千葉直胤は1439年の永享の乱に上杉憲実について足利持氏を滅ぼす方に加担してしまう。

1454年「享徳の乱」に入ると関東管領上杉氏と足利持氏の子足利成氏の対立となり千葉直胤は上杉方だったが足利成氏に一族千葉康胤がついた。千葉康胤は宗家の重臣原胤房と共謀して千葉城の攻め落とし千葉胤直、子18代目千葉胤宣多古城まで追い込まれ、1455年千葉直胤、千葉胤宣、千葉胤賢らが次々と自害し千葉胤賢の子千葉実胤、千葉自胤が武蔵に逃げ武蔵千葉氏設立となる。1456年に8代将軍足利義政な命を受けた東常縁が武蔵千葉氏を支援して馬加城を責めて19代目千葉康胤、子20代目千葉胤持を責めて滅ぼした。

その中千葉康胤の孫21代目千葉輔胤が下総千葉氏の当主となり1471年に長尾景信古河城を攻められ匿ったり、1479年には上杉方の太田道灌臼井城に籠城した千葉輔胤を攻撃した中で新たな本拠地として築城したのが1484年に本佐倉城である。

22代目千葉孝胤は幕府と古河公方との和睦に反発すして古河公方足利成氏と険悪になる。

23代目千葉勝胤は不仲となっている古河公方足利政氏から攻撃を受けているが、山内上杉、扇谷上杉の対立の激化によって和睦している。

※千葉勝胤をモデルにしているユルキャラ【かったねん】

24代目千葉昌胤は古河公方に内戦が起こり足利高基が父足利政氏、弟足利義明を追放して古河公方になった。千葉昌胤は足利高基を支持したが隣国の真里谷信清は受け入れており千葉氏の中ではこれに呼応する動きがあったという。1520年足利義明軍が千葉氏の家臣原氏の城小弓城を奪い小弓公方と名乗る、千葉昌胤は足利義明と対立する為に小弓公方側だった北条氏綱と縁戚関係を結び北条氏綱が足利義明から離脱すると1538年に第一次国府台戦いが勃発し足利義明が戦死すると小弓城を奪還する。

25代目千葉利胤は1546年に跡を継いだが河越夜戦に参加した後に急死して26代目千葉親胤はあとを継いだものの幼少の為に家臣原胤清、原胤貞親子に実権を握られその専制に不満を持った千葉親胤は北条氏と関係の良くない古河公方足利晴氏との関係を結んでしまう。その為に北条氏康に攻められて捕らえられて1557年に家臣に暗殺された為ゆ弟27代目千葉胤富に家督を譲らせれた。1560年に上杉謙信に古河公方足利義氏を攻めた為、北条氏康の命により援軍を送る。1561年に敵対する里見氏の家臣正木信茂の侵攻により臼井城、小弓城を奪われたる。1562年に正木氏に奪われた臼井城、小弓城を奪回し更に臼井城合戦にて上杉謙信を撃退。その後里見氏と交戦が続き1571年には小弓城にて里見義弘と戦っている。28代目千葉良胤は反北条側の姿勢を取ったために追放され弟29代目千葉邦胤が継いだ1582年に織田信長の家臣滝川一益が関東進出の際に織田信長への使者の派遣を要請しているが断っている。1585年に家臣の放屁を指摘した事に恨まれ暗殺されてしまう。30代目千葉重直北条氏政の養子に入ったが1590年の小田原役にて豊臣秀吉に敗れて千葉氏の領地は取られたて滅亡した。

その後本佐倉城は徳川氏に撤収され一旦は破却され、代わりに城下に陣屋が設置された1602年に5万石松平忠輝が封じられるが翌年信濃川中島に移封され1610年軍事上の必要から小笠原吉次、土井利勝が再び本佐倉城に入って佐倉藩庁が置かれた。

1615年佐倉城への移転し一国一城制に廃城になった。


本佐倉城は千葉県の佐倉市にあります。続100名城なので100名城の佐倉城とセットで回られるのがおすすめです。本佐倉城は千葉市街地から北東に約30kmの位置にあります。ここは名門千葉氏の抑えた地域でなかなか良いところです。

佐倉城に比べるとアクセスは少しややこしいので案内図を書いてみた参考になれば幸いです。


❶国道296号線の上本佐倉交差点をググッと曲がります。


❷ポイント❶から約200m先なここを右に曲がります。案内札があります。


❸ポイント❷から道なりに進んで約400mいくとT字を右に曲がってください


❹ぐるりと右回りに行くと本佐倉城の駐車場に着きます。


【駐車場】

約20台は駐車できます。ここらへんはさすが続100名城だけあるなぁ〜😀


【東山馬場】

駐車場から東山と城山の間の平坦地が馬場になっています。


東山馬場の奥にはあの有名な盾がずらっと😀


盾の部分を横切って東山帯曲輪と東山虎口へ行きます


東山虎口が見えてきました。なんか堀切みたい😀


【東山虎口】

2つの門と蛇行した狭い通路で内桝形を形成している。



東山の帯曲輪を登ろう!高い土塁の役割もあるのかな?

なんか良い景色が見れそう😀


【東山帯曲輪】



東山帯曲輪からの景色、なかなか良いです。

かつては印旛沼がここまで来ていた。視界が良ければ筑波山まで見れるみたいです。


東山帯曲輪から駐車場と東山馬場がこの様に見えます。


ここからは4郭へ


緩やかな坂道を登ります。


【4郭虎口】

4郭の虎口です。門跡が発見されています。

説明が丁寧でありがたい。




【4郭】

30m×25mぐらいの広さです。馬場側に低い土塁があります。


分岐点はまずは本丸へ


【本丸と二の丸の大堀切】

深さ6mの堀切で城山(本丸)と奥ノ山(二の丸)の間には木橋があったともされているか堀切底に門があったともされる。



大堀切を抜けます。


分岐点を左側にまずは城山(本丸)へ


【城山の登山道】

道幅は180cmで比高7mを登ります。本丸の道はここしかありません



【城山虎口】

城山虎口左回りに虎口にぶつかっている。




【城山門跡】

通路が二手に分かれていて、左側の先には櫓があったのかな?




【城山(本丸)】

70m×30mぐらいの広さ、


本丸の主殿跡


本丸建屋②


【主殿】

28m×18mの広さ会所、倉庫、庭なのがあったもよう。



櫓跡があったのかな?と想定しています。

この下の鳥海図を見ると櫓がある。


本丸から駐車場が見えました。


以上で本佐倉城①はここまで、やはり1回では書き切れなかった。

ワクワクしますねこのお城は😀

こんばんは、城巡り南関東第二弾は衣笠城。
とにかく遠征の城巡りは、手抜きが酷い。

とにかく、歴史的に行きたかったお城であったので、頑張って寄りました。本当に寄りました程度です🙇‍♂️

では…歴史だけ丁寧に、後はサクッとスタートです。


【衣笠城】

築城  1062年     三浦為通

廃城  1247年

城郭  平山城

天守郭  なし

標高  95m      比高  75m


知名度  ★★☆☆☆☆

満足度  ★★☆☆☆☆

遺構度  ★☆☆☆☆☆

疲労度  ★★☆☆☆☆☆


平安時代後期、1051年〜1062年にかけての前九年の役での戦功により源頼義から相模国三浦に領地を与えられ、当地の三浦氏の祖となったとされている三浦為通が1062年なや衣笠山麓に麓に作った居館が衣笠城の始まりでありのちにこの城は三浦氏の本拠地となり三浦氏が勢力拡大するにあたって増築されていく。1180年源頼朝が伊豆で打倒平氏を掲げて挙兵すると、三浦義澄は源頼朝を支援するが酒知川の増流で川を渡る事が出来ずそのあい間に石橋山の戦いにて源頼朝が大庭景親に敗れた為に引き返した三浦義澄らは由比ヶ浜にて畠山重忠軍500人に遭遇、三浦義澄も畠山重忠も親戚関係もあり戦いを望

※大河ドラマ鎌倉13人より

まず和平交渉を進めていたが、三浦軍の和田義盛の弟和田義茂が遅れて遭遇してその事情も知らずに畠山軍に襲撃して三浦軍は多々良重春(三浦義澄の弟の子)が戦死し畠山重忠軍も50人ほど戦死した。


畠山重忠はこの行動を裏切り行為と感じ、秩父一族の河越重頼、江戸重長らを加えた3000人の兵にて衣笠城に攻め囲んだ。衣笠城には三浦義澄、和田義盛、佐原義連(三浦義明の子)、大多和義久(三浦義明の子)金田頼次(上総常広の弟)長江義景(三浦義明の娘婿)ら450人で対応したが、数では敵わず、三浦義澄の父老齢89歳の三浦義明を残し安房国へ脱出、三浦義明は畠山軍に敗れ自害した。

※大河ドラマ平清盛の三浦義明

その後鎌倉幕府が成立するとこの城はまた三浦氏の本拠地となるが、1247年に三浦氏が没落するとこの城は廃城となった。


衣笠城は横須賀市の南側の国道16号の衣笠ICの直ぐ側にあります。車🚗での駐車場がなく、大善寺の駐車場を借りる型ぐらいしかありません。

徒歩からの登山道はまた別ルートからあるみたいですが…今回は遠征からの車でサクッと訪問です。

大善寺駐車場までの道約400mが激狭く急坂です⚠️

【大和田街道入口🚥】

交差点入って10mほどに分岐点

大善寺の近く付近がさらに激狭く急坂、、ヤバいヤバい


【駐車場】

大善寺の駐車場に着きました。5台ぐらい駐車できますが、【無駄駐車禁止】の看板あるので許可をもらいに行きましょう。駐車場の裏に階段があります。


衣笠城登山道①


衣笠城登山道②

大善寺の横を歩きます。

衣笠城登山道③

更に階段を登ります

衣笠城登山道④

衣笠城登山道⑤

火の用心!

衣笠城登山道⑥

駐車場から約100mぐらいで到着すしました。


衣笠城主郭、ちょっと斜めになっています。


【主郭】

主郭の奧です到着\(^^)/

三浦義明の石碑


主郭の奧へ櫓台かな?


【物見岩】

デカイ岩がありました。


奧からは景色が…見えません😨

早朝5時もありサクッと終了します。


もう少しゆっくり探索したいのだけど、、サクッとで申し訳ない。

井戸跡とかもあるのだけど、、通り過ぎてしまったかな。


おはようございます😃
先日、南関東の城巡りしてきました。
夏場の山城は色々危険なんでちょっと頑張って、いやかなり頑張って京都から千葉県、茨城県、神奈川県の城巡りしました。

まずは神奈川県は小さなお城をサクッと書いていきます。今回は新井城です。


北条氏に二度滅ぼされた三浦氏の哀愁を感じる城跡です。


【新井城】

築城  1250年頃    三浦盛時

廃城  1590年

城郭  平山城

天守閣  なし

標高  26m     比高  26m


知名度  ★★☆☆☆☆

満足度  ★☆☆☆☆☆

遺構度  ★☆☆☆☆☆

疲労度  ★☆☆☆☆☆☆


新井城は三浦氏の居城であるが、、1247年宝治合戦にて北条時頼によって本家三浦氏が滅ぼされた城ではなく、その合戦で北条方についた庶流の佐原盛時が三浦氏を継ぎその拠点としたお城であります。

しかし、佐原盛時は三浦氏の継承を受けたもののその勢力は北条氏に根こそぎ奪われ、ひとつの小さな御家人として細々とついでいく事になる、三浦盛時の子で三浦頼盛は鎌倉6代将軍宗尊親王の随兵を担当するなどしていたのだが、北条時輔に縁が深かったのか1272年二月騒動にて三浦頼盛の従兄弟佐原盛信が北条時輔に殉じて殺され

※大河ドラマ【北条時宗】より

1290年に北条時輔の遺児が反乱を起こしたとして三浦頼盛も殺されてしまった。

三浦頼盛の孫三浦時継は1331年に後醍醐天皇の元弘の乱に際には笠置城に籠る天皇を攻撃する為に鎌倉幕府軍の一員として参加していたが、1333年にの鎌倉の戦いには隣近地にも関わらず、動向がよくわかっていなく北条高時を裏切って天皇側についたと思われる。

その後、京都に滞在していたが後醍醐天皇が御所での儀式で名のある武士を招き出したが下総国の武士千葉貞胤の次席との事で揉め事をおこし険悪になりその後出社拒否を起こしている、1335年の中先代の乱の時に北条時行に与して後醍醐天皇に反旗を翻したが、足利尊氏軍に鎮圧され尾張国に熱田に逃れたが捕まり斬首されたが子三浦高継は終始後醍醐天皇に属していた為に所領は安堵されている

後醍醐天皇と足利尊氏と争うと三浦高継は1357年に足利尊氏に従う事となる。

三浦高継の子三浦高通足利義詮に従い1351年に相模国の守護に任命されだが南北朝時代の騒乱期で北朝についたり南朝についたりその時勢によってふらふらしていた。

その後三浦高連、三浦高明と相模国の守護に継いだが1416年に上杉禅秀の乱にて足利持氏に従っていたのに1421年に相模国守護を解任されている。

その守護解任が影響して三浦高明の子三浦時高は1439年の永享の乱にて守護軍足利義教に誘いに乗り足利持氏を裏切り、鎌倉御所に火を放ち足利持氏軍に致命傷を与えて足利持氏が大敗してしまった。

その後扇谷上杉氏に従い、太田道灌、大森氏頼と共に三柱石と称される事となった。

三浦時高は暫く後継ぎがなく扇谷上杉氏から養子上杉高救が入ったがよほど居心地が悪くすぐに上杉氏に戻ってしまい再び上杉高救の子三浦義同を養子として入れたが、晩年に三浦時高の子三浦高教が生まれてしまう。三浦義同は三浦時高に家臣に人望がない事を利用してし1494年に三浦時高、三浦高教を攻め滅ぼし、三浦氏の当主についた。

※三浦義同

さて室町時代後期は相模は扇谷上杉氏、伊豆は山内上杉氏の領地であり扇谷上杉氏と山内上杉氏が対立している時は駿河国今川氏親に属する北条早雲が伊豆に進出するときは扇谷上杉氏は協力していたが、伊豆を制圧し韮山城を拠点に相模国に進出を開始して1500年に小田原城を奪取してしまったのであり、さらに小田原城を拠点に相模国の制圧を図ろうとする。そうしたなか、1505年に山内上杉顕定河越城の扇谷上杉朝良の居城を攻略したが、1510年に上杉顕定が越後国にて長尾為景に敗れ討ち取られしまう。それを相模国平定の好機に北条早雲が相模国東部に進出してきた。

こうした北条氏の台頭に危機感を抱えたのが三浦義同であり、三浦義同は北条氏の進行を抑える為に子三浦義意を本拠地新井城に残し自ら岡崎城で入って北条氏と対応したが1512年に北条軍が侵攻し迎え撃ったが救援が得られない状況での抗戦は難しく搦手から脱出して住吉城に落ち延びる。住吉城は鎌倉の南に位置して三浦半島の入口を抑える要衡であったが1513年に落城してしまう。三浦氏は北条氏の南下を許してしまい、三浦義同は最後の砦の新井城に籠城する事を余儀なくされた。

その頃に北条早雲は新井城を包囲するかわりに鎌倉に近い玉縄城を築城、新井城は三方に海と断崖に囲まられた要害であったために、新井城の攻略に手間を取れば、扇谷上杉氏が後方から送られて挟み撃ちに可能性があり実際には1513年に扇谷上杉朝良に従う太田資康(三浦義同の娘婚の関係)が救援に向かって返り討ちに遭い戦死している。

1516年には扇谷上杉朝興が武蔵国から出陣して玉縄城を攻略するも敗北、こうした中家臣から姻戚関係である上総国真里谷城武田信保に落ち延びる案も出されたが、三浦義同は新井城で最後を迎える覚悟を決めて7月10日に最後の宴を催すと翌日に城を打って出て一時は北条軍を退却させたがそのつかの間に過ぎず押し戻され、一族をはじめ家臣はみな討ち取られ三浦義同は自害、子の三浦義意は戦死して相模三浦氏は滅亡した。

その後の新井城は北条早雲によって大規模な改築が行われ、安房国の里見えて氏対する備えとした。

実際には何度か里見氏に奪われてしまい、北条氏康か奪い返すと三浦城と隣の三崎城北条氏規を城主とした。 1590年に北条氏が滅亡すると思う役割もなくなり廃城となる。


と長々と説明を書いてしまった💦

新井城は鎌倉市より南に約20km三浦半島の南西端にあり、油壺マリンパーク(2021年閉館)を目指せはたどりつきます。

二の丸、三の丸は油壺マリンパーク、本丸は東大院の研究施設になっており入館できなくなっています。


【駐車場】

新井城の三の丸になります。

かつては、油壺マリンパークの駐車場になっていたのか、施設が閉鎖されてもパーキングは生きています。1日平日500円、土日1000円になっています。


駐車場の南側を進むと


三浦義同の墓の説明板


三浦義同の辞世の句が書かれている

「うつものも 討たるる者も かはらけ(土器)よ くだけて後は もとのつちくれ(土塊)」



先を進んで分岐点を右回りに


三浦義同の墓が見えました


【三浦義同の墓】

なむ〜(・人・)

三浦義同安らかに眠れ


分岐点を少し降りると


海岸が見えてきます。


【胴網海岸】

何故かテントが二つ😅

昔は船着場があったのかな?


駐車場に戻ります


【二の丸】

二の丸は油壺マリンパークの水族館があり1968年に開館したものの経営悪化と老朽化で2021年に閉館した。その後油壺温泉キャンプパークを開設したが2024年3月に閉鎖。シート張っているから取り壊しするのかな?


【本丸の外観】

だいたいこの辺りが本丸かな?


ちょっと回ってみよう、散歩コースになっているのか?地元の年配の方が散歩していた。


ここから海沿いへ




【本丸】

東大院研究施設でここも入れない


【空堀】

施設に入れないが空堀跡は見えます

新井城の説明板、


さらに奧を歩こう🚶‍♀️


【油壺湾】

油壺湾の説明板があった、その説明板の奧が油壺湾。新井城の戦いにて敗北した三浦一族の血が油の壺の様に真っ黒になった事から油壺と呼ばれるさまになった😱ひぇ〜


以上で新井城は終わります。

施設とかで全く探索出来なかったのは残念ですが、この地の雰囲気を楽しめたのはちょっと満足しています。