ではスタート❗️
築城 1484年 千葉孝胤
廃城 1615年
城郭 連郭式平山城
天守閣 なし
標高 33m 比高 24m
知名度 ★★★★☆☆
満足度 ★★★★☆☆
遺構度 ★★★☆☆☆
疲労度 ★★☆☆☆☆☆
平安時代中期から関東に土着していた千葉氏は桓武平氏の平良文流の子孫を自称しているが定かではない。1083年〜1087年の後三年役で活躍した平常兼が千葉介の称号を得て子孫は千葉氏を名乗ったと言う2代目は千葉常重は千葉城を築き3代目千葉常胤は1180年源頼朝の挙兵に加勢を求められてそれを応じて平氏や奥州藤原氏まで戦っている。その功績もあり下総国の守護を任じられている。
※大河ドラマ鎌倉13人の千葉常胤。
5代目千葉成胤は1213年泉親衡の乱や和田合戦には北条義時に従っている。6代目千葉胤綱は1221年承久の乱にては幕府側に着き天皇側の首謀者の1人坊門忠信の身柄を預かっている。6代目千葉胤綱、7代目千葉時胤が早く亡くなり8代目千葉頼胤が継いだがまだ幼く叔父の千葉泰胤が代行している。1247年には千葉一族千葉秀胤が三浦方について静粛されているが千葉頼胤は北条方について難を逃れいる。その千葉頼胤は元寇により異国警固番役に当たり1275年に負傷を元で亡くなっている。9代目千葉宗胤も再び異国警固番役にあたり九州に赴いていたので本拠地に居た千葉宗胤の子千葉胤貞は幼く10代目は千葉宗胤の弟千葉胤宗に実権を握られしまった。これが南北朝時代に一族北朝と南朝に争う事になる。11代目千葉胤宗の子千葉貞胤が新田義貞に従い南朝に千葉宗胤と子千葉胤貞は北朝について争う。1336年12代目千葉貞胤の子千葉一胤が足利尊氏に敗れ戦死する事が起きている。同年1336年に千葉胤貞が急死すると千葉貞胤は南朝を裏切り北朝について足利尊氏について一族争いは終結する。
室町時代に入り14代目千葉満胤が1417年に上杉禅秀の乱にて上杉方に加担した為に足利持氏に一命は守られてたが長男15代目の千葉兼胤と共に蟄居引退をさせられる。16代目の千葉直胤は1439年の永享の乱に上杉憲実について足利持氏を滅ぼす方に加担してしまう。
1454年「享徳の乱」に入ると関東管領上杉氏と足利持氏の子足利成氏の対立となり千葉直胤は上杉方だったが足利成氏に一族千葉康胤がついた。千葉康胤は宗家の重臣原胤房と共謀して千葉城の攻め落とし千葉胤直、子18代目千葉胤宣は多古城まで追い込まれ、1455年千葉直胤、千葉胤宣、千葉胤賢らが次々と自害し千葉胤賢の子千葉実胤、千葉自胤が武蔵に逃げ武蔵千葉氏設立となる。1456年に8代将軍足利義政な命を受けた東常縁が武蔵千葉氏を支援して馬加城を責めて19代目千葉康胤、子20代目千葉胤持を責めて滅ぼした。
その中千葉康胤の孫21代目千葉輔胤が下総千葉氏の当主となり1471年に長尾景信に古河城を攻められ匿ったり、1479年には上杉方の太田道灌が臼井城に籠城した千葉輔胤を攻撃した中で新たな本拠地として築城したのが1484年に本佐倉城である。
22代目千葉孝胤は幕府と古河公方との和睦に反発すして古河公方足利成氏と険悪になる。
23代目千葉勝胤は不仲となっている古河公方足利政氏から攻撃を受けているが、山内上杉、扇谷上杉の対立の激化によって和睦している。
24代目千葉昌胤は古河公方に内戦が起こり足利高基が父足利政氏、弟足利義明を追放して古河公方になった。千葉昌胤は足利高基を支持したが隣国の真里谷信清は受け入れており千葉氏の中ではこれに呼応する動きがあったという。1520年足利義明軍が千葉氏の家臣原氏の城小弓城を奪い小弓公方と名乗る、千葉昌胤は足利義明と対立する為に小弓公方側だった北条氏綱と縁戚関係を結び北条氏綱が足利義明から離脱すると1538年に第一次国府台戦いが勃発し足利義明が戦死すると小弓城を奪還する。
25代目千葉利胤は1546年に跡を継いだが河越夜戦に参加した後に急死して26代目千葉親胤はあとを継いだものの幼少の為に家臣原胤清、原胤貞親子に実権を握られその専制に不満を持った千葉親胤は北条氏と関係の良くない古河公方足利晴氏との関係を結んでしまう。その為に北条氏康に攻められて捕らえられて1557年に家臣に暗殺された為ゆ弟27代目千葉胤富に家督を譲らせれた。1560年に上杉謙信に古河公方足利義氏を攻めた為、北条氏康の命により援軍を送る。1561年に敵対する里見氏の家臣正木信茂の侵攻により臼井城、小弓城を奪われたる。1562年に正木氏に奪われた臼井城、小弓城を奪回し更に臼井城合戦にて上杉謙信を撃退。その後里見氏と交戦が続き1571年には小弓城にて里見義弘と戦っている。28代目千葉良胤は反北条側の姿勢を取ったために追放され弟29代目千葉邦胤が継いだ1582年に織田信長の家臣滝川一益が関東進出の際に織田信長への使者の派遣を要請しているが断っている。1585年に家臣の放屁を指摘した事に恨まれ暗殺されてしまう。30代目千葉重直は北条氏政の養子に入ったが1590年の小田原役にて豊臣秀吉に敗れて千葉氏の領地は取られたて滅亡した。
その後本佐倉城は徳川氏に撤収され一旦は破却され、代わりに城下に陣屋が設置された1602年に5万石松平忠輝が封じられるが翌年信濃川中島に移封され1610年軍事上の必要から小笠原吉次、土井利勝が再び本佐倉城に入って佐倉藩庁が置かれた。
1615年佐倉城への移転し一国一城制に廃城になった。
本佐倉城は千葉県の佐倉市にあります。続100名城なので100名城の佐倉城とセットで回られるのがおすすめです。本佐倉城は千葉市街地から北東に約30kmの位置にあります。ここは名門千葉氏の抑えた地域でなかなか良いところです。
佐倉城に比べるとアクセスは少しややこしいので案内図を書いてみた参考になれば幸いです。
❶国道296号線の上本佐倉交差点をググッと曲がります。
❷ポイント❶から約200m先なここを右に曲がります。案内札があります。
❸ポイント❷から道なりに進んで約400mいくとT字を右に曲がってください
❹ぐるりと右回りに行くと本佐倉城の駐車場に着きます。
【駐車場】
約20台は駐車できます。ここらへんはさすが続100名城だけあるなぁ〜😀
【東山馬場】
駐車場から東山と城山の間の平坦地が馬場になっています。
東山馬場の奥にはあの有名な盾がずらっと😀
盾の部分を横切って東山帯曲輪と東山虎口へ行きます
東山虎口が見えてきました。なんか堀切みたい😀
【東山虎口】
2つの門と蛇行した狭い通路で内桝形を形成している。
東山の帯曲輪を登ろう!高い土塁の役割もあるのかな?
なんか良い景色が見れそう😀
【東山帯曲輪】
東山帯曲輪からの景色、なかなか良いです。
かつては印旛沼がここまで来ていた。視界が良ければ筑波山まで見れるみたいです。
東山帯曲輪から駐車場と東山馬場がこの様に見えます。
ここからは4郭へ
緩やかな坂道を登ります。
【4郭虎口】
4郭の虎口です。門跡が発見されています。
説明が丁寧でありがたい。
【4郭】
30m×25mぐらいの広さです。馬場側に低い土塁があります。
分岐点はまずは本丸へ
【本丸と二の丸の大堀切】
深さ6mの堀切で城山(本丸)と奥ノ山(二の丸)の間には木橋があったともされているか堀切底に門があったともされる。
大堀切を抜けます。
分岐点を左側にまずは城山(本丸)へ
【城山の登山道】
道幅は180cmで比高7mを登ります。本丸の道はここしかありません
【城山虎口】
城山虎口左回りに虎口にぶつかっている。
【城山門跡】
通路が二手に分かれていて、左側の先には櫓があったのかな?
【城山(本丸)】
70m×30mぐらいの広さ、
本丸の主殿跡
本丸建屋②
【主殿】
28m×18mの広さ会所、倉庫、庭なのがあったもよう。
櫓跡があったのかな?と想定しています。
本丸から駐車場が見えました。
以上で本佐倉城①はここまで、やはり1回では書き切れなかった。
ワクワクしますねこのお城は😀