この種の現代文明・文化批判者は、農業、それも米を中心とした農耕の村に、
現実離れした美意識とノスタルジーを抱いています。
実際には、外国人研修生を時給300円、残業費も違法に低い、
休憩時間なし、トイレに行くだけで罰金、女性には夜ばい、
呼びやすいように日本人みたい名前をつける、自殺者も出る…
という条件でつかいつぶし、使いいたぶり、使い殺しているというのに。
ある全国紙のカメラパーソンに聞いた話ですが、
ネット通販で隙間商売をして成功した人に対する村八分も「すっごい」とか。
わたしのブログのコメント欄でも、宗教をおしうりされた農村での終業の話もありました。
経済問題を道徳問題にすりかえ、
自然豊かな田舎の農村(漁村)に行けばいい、といった論調は、
教育と医療や左翼の関係者だけではなく、
一部の右派エコロジストにもひろく分布しています。
「派遣村にいるホームレス等は田舎へ帰れ」という話と
ニートや少年犯罪への自然主義処方は論理的に同型です。
しかしくわしく話を聞くと、その人たちは都会出身の失業者に目がいっていない。
田舎と自然と農業を唱えるだけで、各自治体の有効求人倍率
(ネット上にもグラフがあります)をみたら、
都会のほうが職のあることも無視している。
個人のライフヒストリーを聞けば、それを言っている当の本人は、田舎から都会にでてきているんですよ。
それはその人の故郷が乱開発で荒らされ、または職がないためだったりする。
なのに彼ら彼女らの現実逃避的な幻想のなかの田舎・自然・農村は、
光り輝く産業センターであり、
すべての問題児や失業者を吸収する無限の経済成長地、
またはどんな病気も癒し愚かさを減じるパワースポットか聖地として思い描かれているのです。
または人情あふれる「人間力」の高い、「コミュニケーション」の選良ばかりが、
住みつく不思議な世界です。
もちろんこれは浮き世ばなれした妄想にすぎません。
田舎のほうが車が多いため、都会から田舎にひっこしたほうが花粉症がひどくなった、
田舎では車に乗ってばかりで歩かないので、都会の人のほうが、
地下鉄の階段等でよく歩行運動をしているといった
田舎幻想とは別の体験談もあります。しかし田舎礼賛者は無視します。
でも自分(と身内)だけは都会(特に首都)に住み、その利便のよさを楽しむわけです。
なお戸塚宏は近代西洋の進歩主義が自然を破壊してきたのに、
教育にかこつけてその「進歩」概念をみずから使用しています。これは語るに落ちたのです。
進歩主義に反対するなら、個人の進歩ということにも同時に懐疑的になり、
「しょうがい者が健常者と同じように仕事ができなくてもいいじゃないか」
「学校がなくてもいいよ」「会社づとめ以外の労働も大事だ」
「ならば生存権、ベイシックインカムだ」
とならなくてはえせ反進歩主義であり、ただの金儲け・売名をともなう殺人行為の事後正当化にすぎません。
東大農学部を出たあと京都に来たある院生さんは、
それこそ「徴農」でもやらなければたてなおせないほど、
日本の農業は危機に瀕していると言って"徴農"に賛成だと言います。
しかしこのエントリーで話題にされている戸塚宏なり筑紫哲也といった論者グループには、
そうした使命感はないでしょう。(あればよいというのではありませんが。念のため。)
あと、戸塚等の施設に入る子には戸塚流があうかといえば、
戸塚体験者等にインタビューしてみないと分からないですね。
戸塚らはそういう人を寮に入れてもうける商売をやっているのです。
自分たちに都合の悪いことはまず言わないだろうし、
時には認知の不協和により彼ら彼女らには見えなくなっていることもあるでしょう。
生態学の分野では、まったく人の手の入らない純粋な「自然」環境は(めったに)ないとされています。
読者が利口になって自然や農村への幻想と子ども・若者への偏見を、
ふりまき排除をあおる論者の議論を批判していかねば、
この種の言説はこれからも猛威をふるいつづけるでしょう。