体罰 と ある程度厳しい環境 とは全く別物ですよ。

昔、体罰があった時代にも、

優等生は体罰なんか食らってませんよ。。

 

簡単なお話しですよこれは。ただの教育論です。

 

教育には必ず『強制』が伴う。

強制を強いるのに困難が生じる場合は、体罰が伴う。

 

その体罰によって、強制させられ、更生し、しっかりした人間に育つ。

 

これが体罰教育の根本ですよ。

 

打たれ弱い人は、昔も今もいますよ。

 

ただ、確かに、昔の人の方は根性があったが、

かといって、体罰しない教育が間違ってたとは思わない。

 

打たれ弱さと体罰は、関係ないと思います。

 

結局、体罰を与える側と、受ける側との関係性の問題。

 

愛ある体罰は、個人的には容認するなら、

体罰を与えた後のフォローは、必須だが。

 

私自身は中学時代、先生に殴られた事は、今も憶えてるが、

殴り返して、喧嘩をしていた。

まあ、殴られるだけの事をやったと自覚してるからだ。

 

一言で言わせてもらうと「体罰」と「暴力」は別物ですが、

戸塚ヨットスクールの事を挙げられていますが、

アレは体罰の名を借りた、ただの犯罪で殺人です。

 

体罰は一時的に従わせる効果はあっても、

心身の成長の面で何のメリットもないどころか、

悪影響になるというのが科学的な結論です。

それでも体罰が必要という人は、体罰以外で指導する方法を思いつかない、

自分の機嫌が悪い時に暴力を振るいたい、

今だけ黙ってくれれば何でもいいという指導者側の都合くらいです。

 

どうだろうね。結局、極端はダメ。

褒めてしか育てられないと褒められることが当たり前になる。

結局さ、バランスのはず。

 

人生、生活の中では、良いこともあれば悪いこともあるんだからね。

 

体罰のある時代にも打たれ弱い人もたくさんいました。

時代のせいにせず、自分の生きる時代に合った自分なりの生存戦略を見出してください。

昔は体罰教育ばっかりで、今は体罰否定ばっかり、というのは嘘です。

 

まず体罰の禁止、という事なら、明治時代の学校令や小学校令で戦前から禁止されており、

戦後すぐに勅令は廃止されましたが、

すぐに学校教育法で体罰の禁止はあらためて定められました。

ですから、ずーっと禁止されてきました。

 

体罰肯定論者と言えば、戸塚宏さんもおりますが、

もう亡くなられた石原慎太郎さんって人がおられました。バリバリの体罰肯定論者です。

そして息子さん達が、政界や芸能界で活躍しておられます。

 

さぞ、家庭では体罰全開であったと思いきや、全く体罰は無かったそうです。

石原慎太郎さんの家で体罰が無いんですよ。子ども達がそれ程いい子達だった、

のかもしれませんが、実態はこんなもの、だった可能性が高い様に思います。

 

なにしろ体罰は全面禁止がされていましたから。実際、身近な60代、50代、40代の方に訊いてみても、

体罰を受けたという方もいますが、そんな事は全く無かった、という方も普通にたくさんいらっしゃいます。

まあ、しかし体罰を受けたという方が大声で、そうした事を言いがちではあります。

 

一方、体罰が無いとおっしゃる現在、

児童相談所では毎日の様に体罰で痣を作った、怪我をした、といったケースが通告されています。

昔は通告などされていなかった、とおっしゃる方がいますが、

刑事罰を食らうかの基準は、昔も今も変わらない様子です。子供の数が減っているので、

親が子どもに傷害を負わせる件数自体は減少傾向の様ですが、虐待件数としては増加傾向だそうです。

 

そして学校の先生が体罰を食らわせた場合に、

学校の先生を処分するかですが、戦前はそこそこ厳しく先生は処分されてきましたが、

戦後になって甘々になり、それは現在の今も同様です。

なので、学校における体罰が確認されたからと言って、

学校や教育委員会が体罰先生を刑事告発した例は全国で1件も無く、

たいていは無処分、処分したとして厳重注意や訓告、戒告といった軽い処分です。

懲戒免職なんて事は、まずありません。今の現在です。

戸塚のような見解は、科学も仏教も、どちらも十分に理解しないまま断片的に知識を、

つまみ食いした人がおちいりがちな誤解です。

実際の仏教は、非科学的な要素をてんこ盛りに含む思想体系です。

 

例えば、仏教の開祖である釈迦、

すなわちゴータマ・ブッダは、悟りを開いた際に梵天と呼ばれる神が降臨し、

人々に悟った内容を説くようブッダに懇願したとされています。

つまり、悟りを得てわずか数分後には、

すでに科学とは整合しない出来事が登場しているわけです。

 

大昔であれば「さすがブッダ」で通用したかもしれません。

しかし、科学リテラシーが広く浸透した現代では、

権威付けを狙って設定を盛りすぎたことがあまりにも明白で、

むしろ古代人あるある過ぎて微笑ましさすら感じられます。

このようなレベルの非科学的な逸話は、仏典の中に星の数ほど登場します。

 

他にも戸塚宏の異常かつ頓珍漢な、奴の嫌っているはずの哲学的思想が、

記事にある為、こちらも参照に。

義務教育は義務だから?違います。

義務教育は親の子に教育を受けさせる義務であり

文科省基準の義務教育機関に登校させる義務ではありません。

 

また、教育を受ける権利は子の権利であり、

何を学ぶかという選択権も含まれ、

義務教育機関への事実上の登校強制は権利侵害です。

 

義務教育課程の内容は学習だけであれば2年で頭に入ります。

9年も必要ではなく、有り余る時間を有効に使っているでしょうか?

 

将来の世について語っておられますが、

それは、考えた結論でしょうか?

現実をどの程度ご存じでおっしゃっておられますか?

 

教師は今や偏差値40大卒でマシ、

高卒、中卒、性犯罪者でも正規採用されます。

社会では非正規すら就労の難しい人間を先生と呼び、何を学びましたか?

 

どれだけ将来や社会等の言葉で飾っても、

『自分やみんなと同じ我慢をしない事が許せない』だけです。

 

『働く理由が判らない』『生きてる理由が判らない』

大学を卒業し社会に出るなり言う言葉がこれです。

 

これを言う人間は、同時に不登校バッシングに精を出す。

 

自分が生きる理由は無くとも、

義務教育や受験勉強には何の疑いも持たず、それは当然で、

疑い道を外れる事が異常で悪で、手加減無く叩ける。

 

自分を疑う能力を失っていませんか?

ある人物は語る。

 

なお、言葉は付けてしていたり、変えたりしています。

 

不登校にも色々居まして。

学校が絶対の価値観じゃ無い時代になったので、学校という場にNOを突きつける不登校もいます。

学校が合わない状態をガマンしない結果の不登校もいます。

別にそれでいいよねって思います。

そんなにガマンしてまで行くべき場所でもない。学校は。

 

学校は不登校だったけど、社会人になったらしっかりできるとは思えません。

 

そうとは限らない。っていう例をいくつも見ています。

 

不登校数が増えていますが、結局のところ、

どうにかなるんじゃないでしょうかね。

「最近の若い者は」というのは、古代エジプト、紀元前から言われ続けていることです。

それでも、人類はどうにかやってます。

 

不登校から、貿易の仕事をやっている人を知っています。

ニートから、自治体のインフラを支える仕事をしている人を知っています。

 

その人の今を見ると不安になる。

というのはそうなんでしょうけれど、それで終わるわけじゃない。

 

以上。

私はそれを信じたい。何度でも犯罪を犯さない限り、やり直せれると信じて。

犯罪を犯して捕まったら、終わりだ。

 

存在の全てを否定します。

教育のキの字も知らん戸塚宏の居場所など、

最初から「教え導く」場には無い。素直に自分に都合の良い仲間だけでヨット漕いでればよかったものを、

素人が教育なんかに手出しするから、ロクな人生にならん。

 

ときどきテレビに出たりして偉そうに寝言を垂れ流していますが、

周囲が下手に出ているのは、戸塚宏が「老人だから」に過ぎません。

手前の脳幹をプロレスラーにでも鍛えてもらえば、

自身の教育論が根本的に間違っていることを身を以て知るでしょう。

知ったときには手遅れですが。

 

しかしながら、所沢のタイソンをフル無視しては、

地雷チャンやデスドルノートといった方々も丸無視。

狂っているとしか言いようがなく、己の都合で動いているとしか言いようがない。

 

なお、地雷ちゃんとの議論は、あろうことか、風邪で逃げました。

戸塚宏は漢の風上にも置けないとんだ卑怯者である。

 

信者と支持者のワッショイとなると、ますます、酷い事になるだろう。

ゆたぼん、へずまりゅう、河合ゆうすけ、戸塚宏。

この四人は、いわゆる保守であり、愛国者であり、

日本を愛する者という共通点があり、

まるで、言動そのものが全く同じである。

私は彼らをネトウヨ四天王と呼んでいる。

 

ネトウヨになったら、皆、金太郎飴みたいに、同じ言葉を話しては、

右寄りやネトウヨに対して調和性が高く、

信者と支持者のヨイショとワッショイが極めて目立ち正当化。

そして、その人たちを崇拝するようになる。

 

オールドメディア、マスゴミ、左翼、リベラル、

こう言う言葉を使い始めたら、発症します。

 

そして、令和の世となり、この四人がネット上で大暴れしている。

だからこそ言うが、この四人はネトウヨ四天王である!

 

ゆたぼん、へずまりゅう、河合ゆうすけ、戸塚宏の言動を、

色々と観ているうちに、この四人が言っている事とやっていることが、

全く同じなのは明確です。

正論とほざいては、そこら辺の言葉や口だけより、

それらしいことを散々吹聴しているけれども、実際に本でも読めば、

或いは少しでも調べたら、

戸塚宏と戸塚ヨットスクールや戸塚宏の異常性が、

誰でもわかるはずである。

実際にやっていることは、自分たちが寄ってたかって、

若者が死ぬまで暴力を振るったことを反省するどころか、

「正義だ。大和魂だ。愛国心だ」と繰り返す事だけ。

全て自己弁護。バカは何でも、左翼とリベラルのせいにする。

トンデモナイ話である。

 

実際に私は信者に落ちぶれていました。

そして、調べていく内に、元訓練生の証言や

コメント欄を見ていくうちに信用できなくなりました。

ファンと誹謗中傷されたこともありました。

 

少しでも検索して調べたら、誰でも観ることが出来るはずである、

戸塚宏と戸塚ヨットスクールの歪な部分。

 

ネットで調べては記事を集めて、反論を集めていく毎日を送っています。

私はこのブログを通じて、奴等の実態と異常性を訴えています。

 

 

 

 

体罰は善である というのは、戸塚宏自身がよってたかって死ぬまで若者に暴力を振るったという、

残酷極まりない事実を自己弁護し正当化しているのです。

それすらわからないとは。バカですか? 

 

野生動物のリーダーは規律を正すためには決して死ぬほどの暴力は振るいません。

そんなことは実際に野生動物を見れば一目瞭然、暴力なしで規律が保たれています。

それは信頼関係があり、親としての愛情があり、文字通り、本能を超えた愛情の力です。

狼は肉食獣です。本気で体罰を加えれば相手は死にます。そんなことも知らないのなら、

現実を観察した事もない馬鹿者ですね。 体罰は100%有害無益だと証明されていますが、

そんなことも知らないのですか? 

 

バカな上に怠け者ですね。 戸塚宏は口先ではほめる事にも重きを置いているが、

この狂人がやった事を調べればただの殺人者だと理解できるはずですが。

信者や支持者は殺人がそんなにも好きであり、殺人者が大すきな異常者、変態ですね。

 

 信者や支持者はダメな事を何故子どもがしているのか、その理由を考えた事すらないのですね。

信者や支持者が親なら、最低の親であり親として失格です。

 

 子どもが構って欲しくて悪さをしているだけなのに、

信者や支持者は子どもの真意も考えずに叱るんですか? 親の資格もありません。 

 

信者や支持者の以外のほとんどの親御さん、

我が子の寂しさや怒りや悲しさにしっかり寄り添う愛情のある親御さんなら、

父親でも母親でも、体罰などしなくても子どもをちゃんと躾けています。

 

信者や支持者が親として無能で冷酷、共感性がないだけです。

平気で体罰を振るうのだから、自制心や親として当然の忍耐力もない人間の屑です。

 

そして、やっていることはただの虐待です。 

今も昔も、まともな愛情のある親や教師は、もはや誰ひとりとして体罰など振るいません。

世間の親、愛情のある親なら、子どもは親の言うことを聞きます。

 

信者や支持者が親の資格がなく、自制心もなく、感情のまま平気で暴力を振るう屑だから、

ダメな事をしているのです。

 

信者や支持者は最低の人間であり、親としてはただの毒親です。

その自覚すらないですね。死ぬまで自分のしている事を自覚できずに終わるでしょう。

戸塚宏の説は全く違う、論語を学んでないですね?

そもそも貴方は儒教と論語と全く離れていて否定されてます。

論語において、暴力は「礼」にも「仁」にも反する未熟な行為とみなされます。

特に上論では、自分を律して穏やかな態度を保つことが、

人としての格(徳)を上げると繰り返し強調されていますよ、

何故上論が大切なのも知らないのでは?上論は直の弟子がまとめてるとか知らないでしょ?

 

 1. 粗暴さの否定(第8篇 泰伯) 君子が守るべき3つの心得として、

「動容貌(どうようぼう)、斯(ここ)に暴慢(ぼうまん)に遠ざかる」という言葉があります。

 立ち居振る舞いを整えることで、暴力的な態度(暴)や、人をあなどる心(慢)から遠ざかることができる、

と説いています。 

 

2. 「血気の勇」と「真の勇気」の区別 孔子は、単に力自慢をしたり感情に任せて暴れたりすることを

「血気の勇(けっきのゆう)」や「小勇(しょうゆう)」と呼び、低く評価しました。 

「義を見て為ざるは勇なきなり」

 

(第2篇 為政):正しいこと(義)を行うために出す力こそが真の勇気であり、

私利私欲や怒りによる暴力は「勇」とは認めません。 

弟子の子路(しろ)が腕力に頼ろうとするたびに、

孔子は「礼」や「知性」でその勢いを抑えるよう厳しく指導しています。

 

 3. 徳治主義(第2篇 為政) 政治において、武力や刑罰(物理的な強制力)

で民を従わせることを否定しています。 リーダーが自らの徳(人間性)を磨けば、

北極星の周りを星が巡るように、人々は自然と従うようになる。

力による威圧よりも、道徳による感化を最上位に置いています。