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安倍晋三 ピアノ演奏 [花は咲く]

滑走路にひざまづき手を合わせた安倍総理
今日は2023年8月29日。
安倍晋三・元首相がテロリストの凶弾に倒れ、無念の死を遂げて
から1年と数日が過ぎました。
安倍元首相といえば、必ず思い出す写真があります。今日はその
写真を紹介し、人柄を思い出し、故人を偲びたいと思います。
2013年4月、ひざまずき滑走路をなでる安倍首相(出典
飛行場で両手両足をつき、滑走路をなでているのは安倍首相
(当時)です。
時は2013年4月14日(日)。
場所は小笠原諸島の南端近くに位置する硫黄島(正式名称
「いおうとう」)の自衛隊基地。
この日、安倍首相は休みを返上し、東京から約1,250km
離れた硫黄島を訪れ、遺骨収集作業を視察しました。
その硫黄島で、なぜ一国の首相がひざまずいているのか。
そのいきさつです。

英霊が眠る硫黄島
硫黄島がなぜ「最激戦地」となったのか
出典:読谷バーチャル平和資料館
東京都からはるか遠くに位置する硫黄島は、先の太平洋戦争
で日米両軍が最も激しく戦った場所でした。
どれほど凄まじい戦闘だったかは、双方の戦傷者の数から知
ることができます。
日本軍の守備兵力約2万名余のうち、その95%が戦死ある
いは
行方不明。
生き残ったのは捕虜となった約1千名のみで、そのほとんど
が重傷者だったとか。
一方のアメリカ軍は上陸兵約6万名のうち、戦死者約6,80
0名、戦傷者21,800名との記録が残されています。
双方これほどまでの犠牲者を出しながら、なぜ東西8km南北
4kmほどの小さな島を奪い合ったのか。
実は米軍は硫黄島に飛行場を整備・造成し、日本本土爆撃の
支援基地とする計画でした。
この島を奪いさえすれば、東京をはじめ日本のどこでも大規
模な爆撃が可能となります。
それは戦闘とは関係のない一般市民からおびただしい数の死
傷者が出ることを意味します。
当初、米軍は硫黄島を5日間で占領する予定で、上陸前3日
間に島の形が変わるほどの艦砲射撃と爆撃を行いました。
その凄まじさは、海兵隊員が「(上陸する)おれたち用の日
本人は残っているかな?」と冗談を交わすほどだったそうです。

34日間耐えた兵士たちの支え
W. Eugene Smith, The LIFE Picture Collection/Getty Images
NATIONAL GEOGRAPHIC 日本版サイト
一方、栗林忠道陸軍中将率いる日本軍は島の地下に総計18
kmに及ぶとされる地下壕を巡らせ、1000基近くのトー
チカを構築。
地下壕内の60度近い地熱とのどの渇きに苦しみながらも、
米軍と死闘を繰り広げること実に34日間にも及びました。
死ぬ運命しか残っていない将兵たちを支えたのは、「自分た
ちが敵の攻撃に耐えているうちは、父母も妻子も無事なのだ」
という思いだけでした。
一日長く耐え忍べば、一日祖国への爆撃を遅らせることがで
きる。
それは妻や子の命を一日長らえさせることになる。
どんなに苦しく辛くとも、何としてもこの島を守り抜くのだ
という気迫が、この奇蹟を生んだと言われています。
ジョー・ローゼンタール(Associated Press所属)撮影『硫黄島の星条旗』

遺体の上に敷かれたアスファルト
前置きが長くなりました。安倍首相が滑走路にひざまずいた
理由でしたね。
硫黄島を占拠した後、急ぎ滑走路の整備・造成を急いだアメ
リカ軍。
おびただしい数の日本兵の遺体を回収しないまま、その上に
直接アスファルトを敷き、飛行場を完成させたと言われてい
ます。
1968年に硫黄島が日本に返還され、滑走路は自衛隊に引
き渡されました。
安倍首相が訪れる2013年まで、一部の遺骨は収容された
ものの、大部分は地下に放置されたまま。自衛隊機は45年
もの間、日本兵の遺骨の上で日々の離着陸を繰り返していた
のです。
祖国と次の世代を守るために言葉に尽くせないほどの辛苦を
耐え忍び、ふるさとを遠く離れて亡くなった多くの英霊。彼
らに何を語りかけたのか、首相は明らかにしていません。
安倍首相が地下の遺骨収容に向け、滑走路を移設することを表明
したのは、その年の8月のことでした。
◆安倍総理 硫黄島訪問 – 平成25年4月14日(出典:首相
官邸)

追記
前統合幕僚長の証言
前自衛隊統合幕僚長 河野克俊氏(出典:ENCOUNT)
2022年7月12日、自衛隊前統合幕僚長の河野克俊氏が
ニッポン放送「飯田浩司のOK! Cozy up!」に出演。この時の
安倍氏の様子を次のように語っている。
『私が海上幕僚長だった時代、安倍元総理が2013年に硫
黄島を視察されました。
硫黄島は海上自衛隊が管理しているので、当時、海上幕僚長
だった私がお出迎えしました。
最後にお見送りをするときに、飛行機でお帰りになるので、
滑走路を通過して行かれます。
私もまったく予期していなかったのですが、突然、安倍元総
理が滑走路に跪き、手を合わされたのです。
滑走路に。
私も恥ずかしながら突然のことで、どのように対応していい
のかわかりませんでした。
滑走路の下にも多くのご遺骨が眠っているのですが、そのこ
とを安倍元総理はご存知で、自然とそのような行動に出られ
たのだと思います。
その行動を見て、本当に「戦没者に対する哀悼の念が深い方
だな」と心底思いました。
おそらく日米双方の御慰霊に対して敬意を表さ
れたのだと思います。』

硫黄島の戦いで日本軍司令官栗林中将の戦闘開始から戦闘終結までの動向
硫黄島の戦い(1945年2月19日から3月26日)は、
太平洋戦争中における激戦の一つで、アメリカ軍と日本軍の
間で行われました。
日本軍の司令官は栗林中将(Kuribayashi Tadamichi)でした。
以下は、彼の戦闘開始から終結までの動向の概要です。
戦闘開始(1945年2月19日): 硫黄島の戦いが始まる
と栗林中将は島の防衛を指揮しました。
彼は従来の戦術を避け地下壕やトンネルを使った新たな戦術
を採用しました。
これにより、アメリカ軍の上陸部隊に対して強力な抵抗を示
すことができました。
-
防衛戦の展開: 栗林中将は、硫黄島の地形を利用して、日本軍兵士たちによる堅固な陣地を築きました。アメリカ軍が上陸すると、栗林中将の指揮する日本軍は壕や地下トンネルからの砲撃や奇襲攻撃などで反撃し、激しい戦闘が続きました。栗林中将は、持久戦の戦術をとり、アメリカ軍の進撃を遅らせることに成功しました。
-
日本軍の抵抗の継続: 栗林中将は、島の地下に指揮所を設置し、日本軍兵士たちに持久戦を指導し続けました。食糧や弾薬が不足するなかで、彼は兵士たちに対して厳しい訓練と士気の維持を行いました。
-
戦闘終結(1945年3月26日): アメリカ軍は徐々に島内を制圧し、栗林中将の防衛戦術にもかかわらず、硫黄島を包囲しました。栗林中将は最後まで指揮を執り続けましたが、最終的に日本軍の抵抗は崩れ、多くの兵士が戦死しました。栗林中将も自決し、硫黄島の戦いはアメリカ軍の勝利に終わりました。
この戦いは激しい戦闘と犠牲を伴いましたが、アメリカ軍の
優勢と日本軍の固く持久的な抵抗が特徴でした。
栗林中将は、限られた資源と状況の中で最善を尽くし、硫黄
島の戦いを可能な限り長引かせるために努力しました。

硫黄島で戦った栗林中将の人物像と硫黄島で戦った日米の主だった将校。
硫黄島での戦いは、第二次世界大戦中の1945年に行われ
た激しい戦闘です。
この戦いで日本陸軍の栗林中将が指揮を執りました。
以下に、栗林中将の人物像と硫黄島で戦った主な日米の人物
について説明します。
日本陸軍栗林中将(Kuribayashi Tadamichi):
- 栗林中将は日本陸軍の将校で、硫黄島の戦いにおいて日本軍の指揮を執りました。
- 彼は優れた戦略家であり、硫黄島の防衛を図るために地下壕やトンネルを建設し、ゲリラ戦術や地形を活かした防御戦術を用いました。
- 栗林中将は部下との親密な関係を築き、士気を高めるために努力しましたが、最終的には日本軍の兵力不足や物資不足などに苦しむ中で、敵の上陸に対抗し続けました。
- 彼は硫黄島での戦いの中で最後まで指揮を執り、戦闘の結果を見ることなく戦死しました。彼の指導力と防御戦術は、硫黄島での日本軍の抵抗に影響を与えました。
硫黄島で戦った主な日米の人物:
-
アメリカ軍:
- レイモンド・スプルーアンス大将(Raymond Spruance): アメリカ太平洋艦隊司令官で、硫黄島の戦いにおけるアメリカ軍の指揮官でした。
- ハリー・シュミット少将(Harry Schmidt): アメリカ海兵隊の指揮官で、硫黄島での戦闘を指揮しました。
-
日本軍:
- 上記の栗林中将に加えて、多くの日本軍将兵が硫黄島で戦ったが、個々の名前は特に有名なものはありません。彼らは栗林中将の指揮の下、苦境に立ちながらも奮戦しました。
- 硫黄島で悲劇的な死を遂げた日本人金メダリスト・バロン西の伝説が凄まじすぎる 2年連続のオリンピックイヤーである。 2021年の東京五輪では、日本選手が馬術の個人種目で79年振りに入賞した。 その際、引き合いに出されたのが1932年のロサンゼルス大会の馬術障害飛越で金メダルを手にした西竹一(1902〜45年)である。
硫黄島での戦いは、激しい戦闘と犠牲の多い戦いでした。
この戦いは日本軍の最後の頑強な抵抗の一例とされており、
その後の戦局に影響を与える出来事となりました。
May be the best year of my life.

























