幸せは私の中に そしてあなたの中に。 だけど本当の幸せって何だろう? -10ページ目

幸せは私の中に そしてあなたの中に。 だけど本当の幸せって何だろう?

克服出来ない病は世の中に沢山ある。自分も数々の克服出来ない心の病と身体の病に罹患している。他人の痛み知る努力をし、思い遣りの心で知り応援したい。努力によって人は誰しも大きな失敗でも取り戻せる。努力によって人は誰しも生きる尊厳を取り戻す事ができる。

 

 

 

 

 

※BGMでも聴きながらお読みください。

 

 

絢香 - 三日月

 

 

 

 

 

「病と共に生きる」という言葉の重みは、いくつもの病を抱え

 

 

たとき、より現実的なものとして胸に迫ってくる。

 

 

後縦靭帯骨化症、黄色靱帯骨化症、狭心症、そして腹部動脈瘤。
 

 

それぞれが単独でも大きな影響を持つ病でありながら、それ

 

 

が重なり合うことで、日々の生活は決して平坦ではなくなる。

 

 

後縦靭帯骨化症と黄色靱帯骨化症。
 

 

脊髄や神経を圧迫し、しびれや麻痺、思うように動かない身体。

 

 

術後であっても、すべてが元通りになるわけではなく、症状が

 

 

残ることも少なくない。
 

 

「回復した」というよりも、「これ以上悪くならないように保つ」

 

 

という感覚に近いのかもしれない。

 

 

狭心症は、術後や治療を経てもなお、完全に不安が消えること

 

 

はない。
 

 

胸の違和感や圧迫感があるたびに、心は揺れる。
 

 

「また発作が起きるのではないか」という恐怖は、日常の中に

 

 

静かに居座り続ける。

 

 

そして腹部動脈瘤。
 

 

手術を終えたとしても、それで全てが終わるわけではない。
 

 

定期的な検査、再発や別の血管への影響への不安。
 

 

身体の中に「見えないリスク」を抱え続ける感覚は、言葉にしに

 

 

くい重さがある。

 

 

術後の予後とは、「元に戻ること」ではなく、
 

 

「新しい状態で生きていくこと」なのだと、私は感じている。

 

 

では、その中でどう共生していくのか。

 

 

まず大切なのは、「期待を現実に合わせること」。
 

 

以前の自分と同じように動けると考えると、必ず苦しさが生ま

 

 

れる。
 

 

今の身体でできること、その範囲を受け入れることが、無理の

 

 

ない生活につながる。

 

 

次に、「体の声を最優先にすること」。
 

 

少しの違和感を見逃さない。
 

 

疲れたら休む、無理をしない。
 

 

それは怠けではなく、「生き続けるための選択」だ。

 

 

そして、「不安との付き合い方」。
 

 

病がある以上、不安は消えない。
 

 

むしろ、消そうとすればするほど大きくなる。

 

 

だから私は、不安を「敵」にするのではなく、「知らせ」として受

 

 

け止めるようにしている。
 

 

不安があるからこそ、無理をしない。
 

 

不安があるからこそ、今を大切にする。

 

 

さらに、「人との関わり」。
 

 

外に出ることが難しくても、完全に孤立する必要はない。
 

 

家族との時間、医療者との会話、あるいはこうして言葉を残す

 

 

こと。
 

 

それも立派な「社会とのつながり」だと思う。

 

 

術後の身体は、決して完全ではない。
 

 

むしろ「制限のある身体」だ。

 

 

けれど、その中にも確かに「生」がある。

 

 

朝、目が覚めること。
 

 

穏やかな時間が流れること。
 

 

痛みが少しでも軽い日があること。

 

 

それらは、決して当たり前ではなく、かけがえのないものだ。

 

 

私は思う。
 

 

共生とは、「戦い続けること」ではなく、
 

 

「折り合いをつけながら歩むこと」なのではないかと。

 

 

病を無理に乗り越えようとするのではなく、
 

 

病と共に、自分のペースで生きていく。

 

 

ゆっくりでもいい。
 

 

立ち止まってもいい。

 

 

それでも、自分の命と向き合いながら、一日一日を重ねていく。

 

 

それが、術後の予後を生きる私にとっての、
 

 

一つの答えなのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

May be the best year of my life.

 

 

※BGMでも聴きながらお読みください。

 

 

花*花  「さよなら大好きな人」

 

 

 

 

 

 

難病や治らない狭心症、そしていくつもの病を抱えながら生き

 

 

る中で、この問いは何度も胸に浮かんでは消えていく。

 

 

私はかつて、自分の都合で家を離れた。
 

 

再婚という選択をし、年老いた母を一人にした。
 

 

あの時の自分は、それが正しいと思っていたし、そうするしか

 

 

ないとも思っていた。

 

 

けれど結果として、私は自分の弱さに向き合うことになった。
 

 

身体も心も思うようにならず、結局は実家へ戻ることになった。

 

 

どんな顔をして帰ればいいのか分からなかった。
 

 

責められても仕方がないと思っていた。
 

 

むしろ、拒まれても当然だと覚悟していた。

 

 

しかし母は違った。

 

 

何もなかったかのように、いや、それ以上に——
 

 

私を嫌うどころか、迎え入れ、喜んでくれた。

 

 

その時の母の姿を、私はきっと一生忘れない。

 

 

嬉しさと同時に、強い後悔と申し訳なさが胸に込み上げた。
 

 

「自分は何をしてきたのだろう」
 

 

「なぜもっと早く気づけなかったのだろう」

 

 

そんな思いが、今でも消えることはない。

 

 

そして今、私は母と共に暮らしている。
 

 

外に出る機会は少なく、友人も仲間もいない。
 

 

社会とのつながりが薄れていく中で、孤独を感じることも

 

 

ある。

 

 

それでも——
 

 

この家の中には、確かに「二人の時間」がある。

 

 

母の足音。
 

 

台所から聞こえる音。
 

 

何気ない会話。

 

 

それらは、かつて当たり前すぎて気づかなかったものだ。

 

 

どう生きればいいのか。
 

 

その答えを、私はまだ持っていない。

 

 

けれど一つだけ、はっきりと感じていることがある。

 

 

それは、「今ここにいることの意味」だ。

 

 

過去は変えられない。
 

 

母を一人にした時間も、消すことはできない。

 

 

けれど今、こうして同じ屋根の下で生きている。
 

 

それは偶然ではなく、与えられた時間なのだと思う。

 

 

だからこそ、この時間をどう使うかが大切なのだ。

 

 

特別なことはできないかもしれない。
 

 

身体も心も万全ではない。

 

 

それでも、できることはある。

 

 

母の話を聞くこと。
 

 

一緒に食事をすること。
 

 

「ありがとう」と伝えること。

 

 

ほんの小さなことでも、それは確かな「生き方」になる。

 

 

私は完璧な息子ではない。
 

 

むしろ、後悔の方が多い人生かもしれない。

 

 

それでも母は、そんな私を受け入れてくれた。

 

 

ならば私は、その想いに応えたいと思う。

 

 

立派である必要はない。
 

 

誰かと比べる必要もない。

 

 

ただ、目の前にいる母と、今日という一日を大切に生きる

 

 

こと。

 

 

それが、今の私にできる精一杯の生き方だ。

 

 

孤独を感じる日もある。
 

 

自分を責めてしまう夜もある。

 

 

それでも、朝になれば母がいる。
 

 

その事実が、私をもう一度現実に引き戻してくれる。

 

 

どう生きればいいのか——
 

 

その答えはきっと、「償うこと」ではなく、「共に生きること」

 

 

なのだと思う。

 

 

過去を悔やみ続けるのではなく、
 

 

これからの時間の中で、少しずつ温かさを積み重ねていく。

 

 

母と共に笑える日が、一日でも多くあるように。
 

 

そしてその時間が、互いにとって穏やかなものであるように。

 

 

それを願いながら、私は今日も生きていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

May be the best year of my life.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※BGMでも聴きながらお読みください。

 

 

大沢誉志幸そして、僕は途方

に暮れる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

還暦を越え、私はいくつもの病と共に生きている。
 

 

難病、そして狭心症、そして、その他多くの病。身体は思うよう

 

 

に動かず、心もまた波の様にに揺れる日々だ。

 

 

一番の不安は、いつ尽きるか判らない、この命だ。

 

 

年老いた母を独りにして置いては逝けない。

 

 

かつては、「できること」が当たり前にあった。
 

 

自由に歩き、働き、未来に向かって何かを積み重ねていく。
 

 

しかし今は違う。
 

 

「できないこと」が増え、その現実と向き合うたびに自分の価値

 

 

とは何なのか、生きている意味とは何なのかを考えずにはいら

 

 

れない。

 

 

では、そんな私にとっての「生き甲斐」とは何なのだろうか。

 

 

大きな夢や、誰かに誇れるような成果だろうか。
 

 

それとも、何か特別な使命のようなものだろうか。

 

 

いや、きっと違う。

 

 

ある日、電動カートで外に出た。
 

 

風を感じ、空を見上げ、ただゆっくりと進む。
 

 

それだけのことなのに、胸の奥に小さな灯りが、ともるような

 

 

感覚があった。

 

 

「ああ、まだ自分は感じることができる」
 

 

そう思えた瞬間だった。

 

 

生き甲斐とは、もしかすると「何かを成し遂げること」ではなく、
 

 

「何かを感じられること」なのかもしれない。

 

 

春の芽吹きに心が和らぎ、夏の暑さに生命の強さを感じ、秋の

 

 

寂しさに自分の内面を重ねる。

 

 

そして冬の静けさの中で、ただ生きている自分を見つめる。

 

 

その一つひとつが、確かに私の中に積み重なっている。

 

 

狭心症の発作に不安を覚える夜もある。
 

 

思うように身体が動かず、悔しさや無力感に押しつぶされそう

 

 

になる日もある。
 

 

「なぜ自分だけが」と思ってしまうことも、正直に言えばある。

 

 

それでも、朝が来る。
 

 

また一日が始まる。

 

 

小さな世界の中で、また生きて行く。

 

 

そして、その繰り返しの中で、私は少しずつ気づいていく。
 

 

生き甲斐とは、遠くにあるものではなく、
 

 

日々の中に静かに存在しているものだということに。

 

 

誰かの言葉に救われること。
 

 

誰かに「ありがとう」と言われること。
 

 

あるいは、何もなくても、ただ穏やかに一日を終えられること。

 

 

それでいいのだと思う。

 

 

還暦を越えた今、私はもう無理をして若い頃の自分に戻ろうと

 

 

は思わない。
 

 

できないことを嘆き続けるよりも、できる形で、自分なりに生

 

 

きていきたい。

 

 

たとえ歩みが遅くても、たとえ立ち止まる時間が長くても、そ

 

 

れでも「生きている」という事実は、何よりも尊い。

 

 

生き甲斐とは、きっと問い続けるものだ。
 

 

そしてその答えは、一つではなく、日々変わっていく。

 

 

今日の私にとっての生き甲斐は、この文章を書き、自分の心と

 

 

向き合えたことかもしれない。

 

 

明日はまた、違う何かが見つかるだろう。

 

 

それでいい。
 

 

それでこそ、生きているのだから。

 

 

私はこれからも、不完全な自分のままで、小さな「生き甲斐」を

 

 

見つけながら歩んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

May be the best year of my life.