源氏物語の裏話。 | 幸せは私の中に そしてあなたの中に。

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克服出来ない病は世の中に沢山ある。自分も数々の克服出来ない心の病と身体の病に罹患している。他人の痛み知る努力をし、思い遣りの心で知り応援したい。努力によって人は誰しも大きな失敗でも取り戻せる。努力によって人は誰しも生きる尊厳を取り戻す事ができる。

 

 

 

 

※BGMでも聴きながらお読み下さい。

 

 

 

柴咲コウー月のしずく

 

 

 

 

 

現在、NHK大河ドラマ「光る君へ」が放送されている紫式部

 

 

を主人公としたですが、その歴史的な事、裏話を書こうと思

 

 

います。

 

 

我が県の「越前和紙」は今も有名で現在でも書家にも愛用さ

 

 

れていますし、紫式部も父上が越前(現在の福井県)に現在

 

 

で言えば県知事として赴任した際に越前に同行し2年間(当

 

 

時の県知事は任期が4年)越前で生活しています。

 

 

「源氏物語」は紫式部が書いた事は有名ですが、その物語を

 

 

書く為の和紙が我が県で今も続く「越前和紙」である裏話を

 

 

知っている人は現在放送されている大河ドラマを毎週回観て

 

 

いる人か学者以外は居ないだろう。

 

 

 

 

 
 
紫式部歌碑
「めぐりあひて 見しや
それとも わかぬ間に
雲がくれにし
夜半の月影」

    京都市上京区廬山寺内 
 
   

 

 

 

 

 

 

2000円紙幣D券裏面に描かれている紫式部(右下)

 

 

藤原北家良門流の越前の守・藤原為時の娘で、母は摂津の守

 

 

・藤原為信女であるが、幼少期に母を亡くしたとされる。同

 

 

母の兄弟に藤原惟規がいる(同人の生年も不明であり、式部

 

 

とどちらが年長かについては両説が存在する)ほか、姉がい

 

 

たこともわかっている。三条右大臣・藤原定方、堤中納言・

 

 

藤原兼輔はともに父方の曾祖父で、一族には文辞を以って聞

 

 

こえた人が多い。

 

 

幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読

 

 

みこなしたなど、才女としての逸話が多い。54帖にわたる

 

 

大作『源氏物語』、宮仕え中の日記『紫式部日記』を著した

 

 

というのが通説で、和歌集『紫式部集』が伝わっている。

 

 

父・為時は30代に東宮(現在の皇太子殿下)の読書役を始

 

 

めとして東宮が花山天皇になると蔵人、式部太丞と出世した

 

 

が、花山天皇が出家すると散位となる(位禄はある)。

 

 

10年後、一条天皇に詩を奉じた結果、越前国の受領となる。

 

 

紫式部は娘時代の約2年を父の任国で過ごす。

 

 

長徳4年(998年)頃、親子ほども年の差があり、又従兄

 

 

妹でもある山城守・藤原宣孝と結婚して長保元年(999年

 

 

)に一女・藤原賢子(大弐三位)を儲けた。この結婚生活は

 

 

長く続かず、間もなく長保3年4月15日(1001年5月

 

 

10日)に宣孝と死別しました。

 

 

寛弘2年12月29日(1006年1月31日)、もしくは

 

 

寛弘3年の同日(1007年1月20日)より、一条天皇の

 

 

中宮・彰子(藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)

 

 

に女房兼(現代でいえば家庭教師役)として仕え、少なくと

 

 

も寛弘8年(1012年)頃まで奉仕し続けたようである。

 

 

なおこれに先立ち、永延元年(987年)の藤原道長と源倫

 

 

子の結婚の際に、倫子付きの女房として出仕した可能性が指

 

 

摘されている。『源氏物語』解説書の『河海抄』『紫明抄』

 

 

や歴史書『今鏡』には紫式部の経歴として倫子付き女房であ

 

 

ったことが記されている。それらは伝承の類であり信憑性に

 

 

は乏しいが、他にも『紫式部日記』からうかがえる、新参の

 

 

女房に対するものとは思えぬ道長や倫子からの格別な信頼・

 

 

配慮があること、永延元年当時は為時が散位であったこと、

 

 

倫子と紫式部はいずれも曽祖父に藤原定方を持ち遠縁に当た

 

 

ることなどが挙げられる。また女房名からも、為時が式部丞

 

 

だった時期は彰子への出仕の20年も前であり、さらにその

 

 

間に越前国の国司に任じられているため、寛弘2年に初出仕

 

 

したのであれば父の任国「越前」や亡夫の任国・役職の「山

 

 

城」「右衛門権佐」にちなんだ名を名乗るのが自然で、地位

 

 

としてもそれらより劣る「式部」を女房名に用いるのは考え

 

 

がたく、そのことからも初出仕の時期は寛弘2年以前であると

 

 

いう説である。

 

 

『詞花集』に収められた伊勢大輔の「いにしへの奈良の都の

 

 

八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」という和歌は宮廷に献上

 

 

された八重桜を受け取り中宮に奉る際に詠んだものだが、『

 

 

伊勢大輔集』によればこの役目は当初紫式部の役目だったも

 

 

のを式部が新参の大輔に譲ったものだった。

 

 

藤原実資の日記『小右記』長和2年5月25日(1014年

 

 

6月25日)条で「実資の甥で養子である藤原資平が実資の

 

 

代理で皇太后彰子のもとを訪れた際『越後守為時女』なる女

 

 

房が取り次ぎ役を務めた」旨の記述が紫式部で残された最後

 

 

のものとし、よって三条天皇の長和年間(1012年 - 10

 

 

16年)に没したとするのが昭和40年代までの通説だった

 

 

が、現在では、『小右記』寛仁3年正月5日(1019年2

 

 

月18日)条で、実資に応対した「女房」を紫式部本人と認

 

 

め、さらに、西本願寺本『平兼盛集』巻末逸文に「おなじ宮

 

 

の藤式部、…式部の君亡くなり…」とある詞書と和歌を、岡

 

 

一男説の『頼宗集』の逸文ではなく、『定頼集』の逸文と推

 

 

定し、この直後に死亡したとする萩谷朴説、今井源衛説が存

 

 

在する。

 

 

現在、日本銀行券のD号券の2000円札の裏には小さな肖

 

 

像画と『源氏物語絵巻』の一部を使用している。

 

 

 

 

 

 

「紫式部についてWikipediaより抜粋」

 

 

 

 

 

 

越前とは現在の福井県である。

 

 

紫式部は藤原道長の娘を宮中の帝に嫁がせて、後に福井県に

 

 

戻っている。

 

 

「源氏物語」等を記した紫式部の文章には越前和紙が使われ

 

 

ており当時から越前和紙は京の都人の間でも有名な和紙だっ

 

 

た様である。

 

 

その和紙が平安時代から現代まで伝統手法は続き今も残って

 

 

いる。

 

 

僕も「源氏物語」が越前(福井県)に住んでいた頃の紫式部

 

 

によって描かれた物語と知り、こんな裏話があるのかと驚き

 

 

ました。

 

 

「源氏物語」が越前和紙を使用して書かれた物語だという事

 

 

はWikipediaにも記載されてはいない。

 

 

正に裏話である。

 

 

 

 

 

 

 

 

May be the best year of my life.